シリーズ:パレスチナ問題って何だ?
〜その9:2000.9−2001.9の動静〜
皆さん、お久しぶりです。(ホントにお久しぶりです。←By管理者)長い間留守にしていまして、どうもすみません。 このパレスチナ問題シリーズも、第9回目になりました。前回、よほどのことが起こらない限り、今回を最終回にすると、皆さんに公言していたのですが、2001年の9月11日の同時多発テロという、とんでもない大事件が起こってしまいました。 あれ以来、中東についての関心を持たれた方も多いと思います。私ももうしばらく、このパレスチナ問題を追い続けていこうと思っています。 今回は、2000年9月から2001年9月までの1年間の動静をまとめてみました。 |
2000年9月、パレスチナ人の不満がついに爆発しました。インティファーダ(民衆蜂起)の再燃です。1993年のオスロ合意成立で、いったんはなりをひそめていたのですが、遅々として進まない自治交渉、依然として続くイスラエル軍による占領、さらにいっこうに止まらないイスラエル人の入植地拡大などによって、パレスチナ人の苛立ちは高まる一方だったのです。 そんな時イスラエルのシャロン氏(現在のイスラエル首相)が、多数の護衛に囲まれて突然エルサレムにあるイスラム教の聖地「神殿の丘」を訪問したのです。このことがイスラム教徒であるパレスチナ人の反発を招き、この1年半にも及ぶ争乱の発端となったのでした。 パレスチナ側によるイスラエル入植地への砲撃や自爆テロ、その報復としてイスラエルは、パレスチナ自治区を武装ヘリや戦車で攻撃しました。2001年の5月には、パレスチナ過激派による自爆テロがイスラエルのショッピングセンターで発生し、6人が死亡し65人がケガをしました。この時には、イスラエルはF16戦闘機による報復攻撃を行っています。 このエスカレートしていく双方の報復合戦で、大量の犠牲者がでました。テロに巻き込まれるイスラエル市民、戦車の砲撃で住居を破壊され、また、その砲弾に倒れるパレスチナ市民など、犠牲になるのはいつも決まって民間人なのです。 これに対し、国際社会も動き出しました。アメリカ、ノルウェー、トルコ、EU(ヨーロッパ連合)で構成される「国際調査委員会(ミッチェル米元上院議員が委員長)」が、双方の武力衝突の原因調査と再発防止策の検討に乗り出したのです。そして5月21日、双方に対して「即時暴力行使停止」を求める報告書を発表しました(ミッチェル報告)。 これによれば、 1.問題解決のため双方が即時に無条件の武力停止をする。 2.交渉の再開に備えて、相互の信頼回復のため冷却期間を設ける。 3.パレスチナ自治政府はテロを非難すること。 4.イスラエル政府には、自然増を含めて入植地拡大を凍結すること、 を勧告しています。 これを受けてイスラエルのシャロン首相は、パレスチナ側に「即時全面的停戦」を呼びかけ、和平交渉の再開を約束しました。しかし、入植地拡大問題については、「新設はしないが人口増加に伴う必要には応じなければならない。」と述べ、肝心の「入植地拡大全面凍結」には拒否する姿勢を示したのです。 また一方、イスラエルの占領に対する抵抗運動を続けてきたパレスチナ民衆からすれば、テロとひとくくりにしての暴力停止には反発があり、「占領という国家暴力をなくすのが先だ。」という言い分があるのです。実際、パレスチナ自治政府の高官は、「入植地が存在する限り、民衆抵抗運動は続く。」との見解を示したのです。 イスラエル政府が一方的停戦を宣言する中、6月1日にイスラエルのテルアビブで大規模な自爆テロが発生し、21人の死者が出ました。これに対しイスラエル政府は、今後の治安対策としてパレスチナ自治区を完全封鎖すると決定しました。これは、人道援助以外の人と物の移動を禁止するもので、自爆テロの防止がその目的です。 しかし、封鎖強化は自治区住民の経済状況をさらに圧迫することにつながり、「逆にパレスチナ民衆の絶望感を深め、復讐心をあおるだけだ」、との批判の声もあがっています。実際、自治区の失業率は、50%以上との指摘があるのです。 この状況の中で、アメリカがようやく動き出しました。これまでブッシュ政権は、中東問題に対して「不関与」であるとヨーロッパ諸国やアラブ諸国から批判されていたのですが、ここにきて本格的にイスラエル、パレスチナ双方の衝突回避に向けて仲介に乗り出したのです。 そして、2001年6月13日、イスラエル、パレスチナの両者は、アメリカの停戦案受け入れに同意し、2000年9月以来の衝突の停止に初めて合意しました。 この停戦案によると、 1.パレスチナ側はイスラエル軍や入植者への攻撃を完全に停止し、過激派を逮捕して迫撃砲などの武器を回収すること。 2.イスラエル側は、その実施状況に応じて、自治区の封鎖を解除し、衝突前の位置にまでイスラエル軍を戻すこと。 と、なっており、これが実現した後に先の「ミッチェル報告」に沿って和平交渉をすすめることになったのです。 この後、しばらくの間はパレスチナ過激派による自爆テロは収まったのですが、パレスチナ人によるイスラエル入植者への銃撃や、イスラエルによるパレスチナ過激派メンバーに対する暗殺作戦が続き、両者の対立は再びエスカレートしていきました。イスラエルのシャロン首相は、パレスチナ自治政府のアラファト議長が過激派を逮捕しないことを理由に、過激派メンバーの暗殺を繰り返していったのです。 8月9日、エルサレムで大規模な自爆テロが発生し、レストランで昼食中の20人近くが死亡、100人以上がケガをする大惨事となりました。しかし、これも当然の成りゆきだったのかも知れません。イスラエルのやり方に対して、パレスチナ人の中にはどうしようもない不満と憎悪が高まり、報復を求める声が強まっていたのですから。 この事件をきっかけとして、アメリカの仲介により6月13日に成立したイスラエル・パレスチナ停戦合意は完全に崩壊しました。 これ以後、イスラエルは、パレスチナ側に対して新戦略をとることを決定しました。今までは、パレスチナのテロに対する報復という形で攻撃をしていたのですが、これからはテロを受けてから行動に出るのではなく、戦車部隊が繰り返しパレスチナ自治区に侵攻し、パレスチナ自治政府に徐々にダメージを与えていくという攻撃型戦略を採用することになったのです。 そして8月27日、PLOを構成する1組織、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の議長が、イスラエルのミサイル攻撃で殺されるという事件が発生しました。この人物は、ムスタファ氏といい、PLOの中でもアラファト議長に次ぐナンバー2の指導者です。 彼はパレスチナ人の間では、過激派というより思慮深い理論的指導者として人気のあった人物とされています。この点で、従来イスラエルがとってきたテロ実行犯の過激派暗殺とは大きく意味が異なり、パレスチナ人の間に大きなショックと新たな怒りが広がったのです。 パレスチナ民衆の中には、「イスラエルの攻撃に対抗するには、もはや自爆テロしかない」という絶望感がただよいはじめ、過激派に対する支持が高まっていきました。 そのような中で、「9月11日のあの事件」が起こったのです。 次回は9月11日以降の状況についてお知らせします。では、また。 |