シリーズ:パレスチナ問題って何だ?
〜 その8:エルサレムは誰のもの? 〜


 前回、パレスチナ暫定自治協定の成立についてお話ししました。この内容はイスラエル軍が占領地から順次撤退し、それと同時にPLOが自治行政を始めるというものでした。イスラエル・PLO双方とも、この自治の開始を緊急テーマにしていたので、 (1) エルサレム問題  (2) 入植地問題 の二つはこの協定ではふれられず、先送りとなったのです。なぜなら、この二つの問題が、一番やっかいで解決が難しいからなのです。

 (2) の入植地問題については、前回お話ししたので、今日は(1) のエルサレム問題を中心に、現在起こっている諸問題についてお話しします。
 

 エルサレムは誰のもの?

 まずこれを見て下さい。現在のエルサレムの旧市街の略地図です。

エルサレム旧市街図
 
 このようにエルサレムは、ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教の信徒が共に生活する一種独特な街です。この3宗教が同じ神を信仰する宗教であり、またエルサレムが3宗教の聖地であると、このシリーズの第2話ですでにお話ししました。では、なぜこういう状況が生まれたかについて、ここでもう一度おさらいをしましょう。

 もともとエルサレムは、紀元前1000年頃にヘブライ人(ユダヤ人)がパレスチナ支配の拠点とするために建設した街で、当時は彼らの王国の都として栄えたところでした。ヘブライ人(ユダヤ人)は、図中の(A)「神殿の丘」と呼ばれているところに神殿を築きました。その後、度重なる大国の侵略と支配の中で、彼らは神への信仰を高め、その信仰を中心に民族としての結束を強めていきました。こうして生まれたのがユダヤ教なのです。

 紀元前1世紀になると、この地はローマによって征服され、その支配を受けるようになります。この時期に登場してくるのがイエス=キリストです。今から2000年前のことです。彼は当時のユダヤ教の在り方に対し、「神の本当の教えとは違っている」と、ユダヤ教の僧侶たちを非難しました。

 怒った僧侶たちはイエスを捕らえてローマ帝国に引き渡し、死刑を要求しました。その結果、イエスはゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑されました。そのゴルゴダの丘にあったとされる所に建てられたのが、図中(B)にある聖墳墓教会です。イエスの教えをもとに生まれたキリスト教はその後どんどんローマ社会に広がっていき、ローマ帝国の国教の地位を手に入れることになりました。

 一方、パレスチナに住むユダヤ人は、ローマの支配に反発し反乱を起こしますが、無惨にもうち破られ、彼らの神殿も徹底的に破壊されてしまいました。ただし、神殿の丘をとりまく石垣の一部だけが残りました。これが図中 (C) の「嘆きの壁」なのです。これ以後、ユダヤ人たちはエルサレムを追われ、国家なき民として世界各地へ離散していくことになったのです。

 7世紀になるとアラビアからイスラム勢力が登場し、エルサレムもその支配下におかれるようになります。イスラム教徒たちは、ローマが破壊した「神殿の丘」の上にモスク(イスラム教の礼拝堂)を建設しました。これが図中 (D) の「岩のドーム」です。ここには大きな岩があるのですが、預言者ムハンマドは岩の上から天国に昇っていったという伝説があり、この岩を囲うようにして建てられたこのモスクは、まさにイスラム教徒にとっては聖所なのです。
手前:嘆きの壁(ユダヤ教)  奥:岩のドーム(イスラム教)

 イスラム教徒は他の宗教を信仰する人たちに対して寛容な政策をとったので、エルサレムにはキリスト教徒がそのまま住み続けることになり、少ないながら、ユダヤ教徒も居住を許されたのです。このようにしてエルサレムは、ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教の聖地という特殊事情を持つ街となったのでした。


 今から900年前に発生した十字軍の時代は、侵入したヨーロッパのキリスト教徒の軍隊によって、エルサレムのイスラム教徒やユダヤ教徒は大量に虐殺されるという事件も起こりましたが、それ以外は3つの宗教徒が平和に暮らす時代が続いてきたのです。

 しかし、20世紀になると事情は一変していきます。アラブの民族主義とユダヤのシオニズムの高まりによって、イスラム・ユダヤ両教徒の対立が始まったのです。もちろん、この原因をつくったのは、イギリスであることは、すでに第5話でお話ししたとおりです。この両者の対立がエスカレートし、火がつくのは第二次世界大戦が終わった直後のことでした。

 1947年、国連がパレスチナ分割を決議したとき、エルサレムは「国際管理地域」とされました。つまりパレスチナという領域はアラブ人(パレスチナ人)とユダヤ人(イスラエル人)の双方に対し、分割してその領有を認めるが、歴史的に3つの宗教の聖地となってしまったエルサレム市に関しては、「どこにも属さない地域」とすると定められたのです。

 ところが1948年に始まった第1次中東戦争で、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダン軍が占領し、西エルサレムはイスラエル軍によって占領されてしまいます。この時から、イスラエル政府はエルサレムを正式な首都であると宣言するのですが、国際諸国は、「1947年の国連決議に反する」として、今だにこのイスラエル政府の主張を認めていません。
 
1949年当時のエルサレム市の状況

 1967年になって第3次中東戦争が発生すると、休戦ラインをはさんでイスラエルとヨルダンの戦闘が始まりました。イスラエルは優勢に戦いをすすめ、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領してしまいます。そしてイスラエルは東西エルサレムの統合を宣言したのです(この関連地図は、前回の第7話に掲載してあります)。

 このようにイスラエルは、エルサレムはあくまでも自分たちの唯一の首都であるとの態度を変えようとはしません。またパレスチナ(PLO)側も、東エルサレムに自分たちの首都をおきたいと考えており、「エルサレム問題」が、今後の和平成立にとって「入植地問題」とともに、最大の難問となっているのです。

 
 近年、エルサレムをめぐって、次のようなケースが発生しています。それは、ユダヤ右翼勢力によるパレスチナ人住居の乗っ取りです。ユダヤの右翼たちは、所有権の登記されていないエルサレム市にあるパレスチナ人住居に勝手に押し入り、周囲には鉄条網を張りめぐらせ、銃を持った警備会社のガードマンを24時間態勢で警備にあたらせ、その家の所有者を中に入れないようにしています。

 もちろん、乗っ取られたパレスチナ人も古い権利書をたてに、裁判をおこしました。しかし、裁判所は乗っ取りのメンバーたちに退去命令を出そうとしません。警察も「これは一部の過激派がやっていることで、イスラエル政府の政策ではない。」と言っているのですが、パレスチナ人からすれば、「裁判所も動いてくれないのだから、これはエルサレムのイスラエル人人口を増やし、その併合の既成事実化を狙っているのだ。」という不信感を抱かずにはいられません。

 このように1993年の暫定自治協定成立後も、エルサレムをめぐる両民族の対立は続いてきたのです。そして2000年の9月、この聖地をめぐってパレスチナ住民とイスラエル軍の間に激しい衝突が起こりました。事の発端は、イスラエルの「タカ派」として知られるリクード党党首のシャロン氏が、多数の護衛を率いてイスラム教徒の聖地「神殿の丘」を訪問したことから始まりました。シャロン氏は、2月から首相に就任している人物です。

 私が、昨年の秋からパレスチナ問題をテーマに選んでこれを書き始めたのも、この9月の事件に何か「キナ臭いもの」を感じたからです。実際、この時以来の衝突は今年に入っても長引き、未だに解決のめどは立ってはいません(6月からはアメリカが調停に介入し、両者も解決の方法をさぐってはいますが)。そしてこの9ヶ月の間に、双方合わせて600人以上の人が亡くなったのです。



 次回は、最新のパレスチナ情勢をお知らせします。よほど大きな動きがない限り、このシリーズの最終回になると思います。