シリーズ:パレスチナ問題って何だ?
〜その7:PLOの結成と和平に向けてのうごき〜

 皆さん、こんにちは。
 
 
 前回では、イスラエルの建国から4次にわたる中東戦争、また、それをとりまく国際環境や影響についてみてきました。今回は、イスラエルによって占領されているパレスチナの内情や和平会談の始まり、さらに近年のパレスチナ情勢にまでふれていきたいと思います。
 

 PLO

 中東戦争によって、たくさんのパレスチナに住むアラブ人が、海外に脱出しました。彼らは戦乱の中、住むところを追われて難民となっていったのです。これをパレスチナ難民といいます。中東戦争は、イスラエルとエジプト・シリアなどのアラブ国家の戦いでした。しかし、この危機的状況の中で、次第にパレスチナのアラブ人たちの間に民族としての自覚が芽生えてきました。彼らは自分たちのことを「パレスチナ人」と強く自覚するようになっていったのです。

 1964年、イスラエルによって奪われた土地を取り戻すことを目的に、「PLO(パレスチ解放機構)」が結成されました。1969年にアラファトが議長になると、いろいろなパレスチナの抵抗運動組織が結集するようになり、武力によってイスラエルからパレスチナを取り戻そうとする、戦闘的な組織となっていきます。

 実際、1970年代から80年代にかけて、各地でパレスチナゲリラによるテロが多発します。これに対して、イスラエル側も報復に出ましたから、一般民間人を巻き込んだ流血の歴史が刻まれていくのです。この果てしない殺しあいの中で、両民族の間の憎しみの感情は、どんどん高まっていったのでした。


 また、こんな事件も起こりました。1987年、イスラエルの占領下にあるパレスチナ人たちが、一斉に抵抗運動を始めました。彼らは武器をほとんど持たず、銃をもったイスラエル軍兵士たちに「投石」で立ち向かっていったのです。これを「インティファーダ」といいます。この運動の中心となったのは、パレスチナ人の青年や子供たちでした。彼らは戦争の体験などない世代なのですが、イスラエル軍による支配と差別に耐えかねて行動を起こしたのです。イスラエル軍も、催涙ガスやこん棒、またゴム弾などを使って鎮圧しようとしますが、予想外に難航し、93年まで続く長期の運動になりました。その間に、1000人以上のパレスチナ人が亡くなったのです。



 和平へ向けて
 
 1991年、パレスチナ問題が新しい局面を迎えました。中東和平会談の始まりです。アメリカの提唱によって始められたこの国際会談に、イスラエル・パレスチナの代表、またエジプトやシリアといった中東戦争でイスラエルと戦ってきたアラブ諸国、さらに、米ソ・ヨーロッパ諸国が同じテーブルにつき、パレスチナ問題や中東の和平実現に向けて話し合うことになったのです。

 では、なぜ突然にこのような状況が生まれたのでしょうか?

 一つはPLOの方針転換です。これまでPLOは、イスラエルの存在自体を否定してきました。一方、PLOをとりまく国際状況は刻々と変化していきます。PLOを「パレスチナ人を唯一正統に代表する組織」として認めるという国が、次第に増えていきました。PLOも「パレスチナ国家樹立」を掲げると共に、いままで敵視してきたイスラエルを承認し、テロ活動を放棄すると発表したのです。イスラエルを支援してきたアメリカも、これ以後は一転してPLOとの公式対話をすすめる動きをみせたのです。

 しかし、この方針転換を決定的にしたものが、「ソ連の崩壊」でした。冷戦時代、ソ連はPLOの武装闘争の最大の後ろ盾でした。その後ろ盾が冷戦の終結の中でなくなってしまったわけですから、PLOも武力によってではなく、話し合いによって目的を達成する道は残っていなかったのです。

 もう一つは、「湾岸戦争」です。これはイラクが、クウェートに侵攻して占領したことに対して、アメリカ、イギリス、フランスを中心とする多国籍軍が、イラク軍のクウェートからの即時撤退を要求して発生した戦争です。

 これがパレスチナ問題にどう影響するのかというと、当時、クウェートを占領したイラクに対して、アメリカを中心とする国際諸国は非難の声をあげました。これに対してイラクは、「イスラエルがパレスチナ人の土地などを占領し続けていることに対し、アメリカのなどの世界の国々は、今まで何も文句も言わずにほったらかしにしてきた。それなのにイラクがクウェートを占領したことを、なぜそれほどまでに責めるのだ。イラクが悪いというならば、イスラエルも同罪ではないか。」と問題のすりかえをはかったのです。湾岸戦争そのものはイラクの敗北に終わったのですが、これによって、改めて国際社会は今まで放置されてきたパレスチナ問題に目を向けるようになったのです。


 この二つの変化が、対立し憎しみあってきた二つの民族を、和平交渉という一つのテーブルにつかせることになったのです。

 1993年、ついに歴史的瞬間がきました。「オスロ合意」の成立です。PLOとイスラエルが、ノルウェーのオスロでひそかに交渉し、お互いの存在を認めあうという合意に達したのです。調印式は、アメリカのワシントンにあるホワイトハウス前の広場で、アメリカ大統領クリントンの立ち会いのもとおこなわれ、イスラエルの「ラビン首相」と「アラファト議長」は握手をかわしたのです。

 この結果、パレスチナを占領しているイスラエル軍は順次撤退し、その後、パレスチナ人に暫定的に自治を認めることが決められました。こうして和平へのプロセスは、着実に大きな一歩を踏みだしたのです。

 
 しかし、1995年、ショッキングな事件が発生しました。イスラエルのラビン首相が暗殺されたのです。犯人はイスラエル人でした。イスラエルの過激派からすれば、ラビン首相はパレスチナと結んだ裏切り者だという訳です。パレスチナ側でも同じような現象が始まります。PLOやアラファト議長の路線転換に反発し、和平交渉そのものを壊してしまおうという過激派の勢力が伸びてきたのです。

 彼らはテロによってイスラエルを挑発しようとします。このように、一度は進みかけた和平も、大きな壁にぶつかってしまったのです。実際、これ以後は、占領地からのイスラエル軍撤退も約束通りには行われず、和平交渉の進展もみられなくなってしまいました。それどころかイスラエルは「入植地」を拡大する政策をとっていきます。「入植地」というのは、第1次中東戦争や第3次中東戦争で、イスラエルがパレスチナ人居住区を占領下におきましたが、イスラエルは政府はその占領地にイスラエル人の住宅地を建設していきました。これを「入植地」といいます。

 建設が始まったのは1967年の「第3次中東戦争」の後からで、エルサレムの東側にある「ヨルダン川西岸地区」などに建設されました。そもそも初期の頃の入植地は、軍事目的で作られました。外見的には、イスラエル人のベッドタウンという感じで、ここに住む人は、ほとんどがエルサレムのような都市へ通うサラリーマンなのですが、実はすべて予備役兵士であり、自宅には自動小銃を置いているのです。東からアラブの地上部隊が攻めてきたとき、それをくい止めるための要塞としての役割を背負っているのです。

 しかし、後には占領地を返さないための入植地がつくられていきました。いやがらせを加えてパレスチナ人を追い出したり、また、パレスチナ人の土地所有者が亡くなったあと、その遺族がいるにもかかわらず、その土地に強引にイスラエル人の住宅が建設されたりしました。イスラエルの入植者には政府から補助金が出され、相場の半額ほどで住宅が買えるため、たくさんのイスラエル人がこれらの入植地に住み着くようになったのです。このようにしてイスラエルは占領の既成事実化をはかろうとしました。そして今も入植地の拡大は続いているのです。

イスラエルによる現在の占領状況
※ゴラン高原は、第3次中東戦争でイスラエルがシリアから占領したところ。いまだ和平協定は調印されず、全面返還には至っていない。
※ヨルダン川西岸地区とガザ地区は、パレスチナ人居住区であったところだが、第3次中東戦争でイスラエルにより占領され、「入植地」が建設されている。「オスロ合意」でパレスチナの自治政府の行政下に置かれることになったが、現在は混迷中。
 
 次回は、エルサレム問題、そして現在のパレスチナ情勢をあつかう予定です。では、また。