シリーズ:パレスチナ問題って何だ?
〜その6:中東戦争とオイルショック〜
皆さん、こんにちは。今回でこのシリーズの最終回にしようと思っていたのですが、少々話が長くなりそうなので、予定を変更してお送りします。 |
前回では、パレスチナ問題の直接的原因を作ったイギリスの二重外交についてふれました。その結果、中東地域はどうなったのか・・・・・・。今日はまず、そのおさらいからはじめます。 第1次世界大戦後の中東は次のようになりました。 |
結局、オスマン=トルコ帝国から独立できたのはサウジアラビアぐらいなもので、他のアラブ人居住地は、イギリス・フランスの思惑によって勝手に国境線がつくられ、分割されてしまいます。シリアはフランスの、イラク・ヨルダン・パレスチナはイギリスの委任統治領として、事実上の植民地にされてしまいました。 イギリスはフサイン=マクマホン協定で、アラブ民族の独立を約束していたわけですから、アラブ人たちの怒りをかうことになります。また一方で、イギリスはユダヤ人のシオニズム運動支持をうたったバルフォア宣言を出していましたから、アラブとユダヤの両民族のトラブルのもとをつくってしまったわけです。 実際、戦争が終わった後、世界各地のユダヤ人が続々とパレスチナを目指すようになりました。特に1930年代になって、ドイツでヒトラーが独裁政権を樹立すると、それまで以上のユダヤ人が難民となってパレスチナに殺到しました。ヒトラーが、ユダヤ人に対して空前の大迫害を行ったことはご存じのことだと思います。この時、脱出できなかった人たちが、アウシュビッツなどの強制収容所で虐殺されていったのです。 話が少しそれてしまいましたが、このように急激にユダヤ移民がパレスチナに入り込んだことで、両民族の対立がエスカレートしていきます。ユダヤ人にとっては、ここがかつて神によって約束された土地であるわけですが、アラブ人(パレスチナ人)からすれば、すでに1000年以上も暮らしてきた所なのですから、両者の主張は真っ向からぶつかってしまいます。 イギリスもなんとか問題をおさめようとしますが、このトラブルのもとをつくった張本人なのですから、両民族の怒りをしずめることはできませんでした。第2次世界大戦が終わった後、結局イギリスはパレスチナの委任統治権を放棄し、この問題を国際連合にもちこんだのです。 中東戦争 1947年、国連は「パレスチナ分割」を決議しました。これはパレスチナをアラブ・ユダヤ両民族の居住地に分け、それぞれの国家建設を認めるといったものでした。ただ、イェルサレムに関しては、ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教の聖地であるという特殊な事情があるため、「国際管理地区」とされたのです。ユダヤ側はこれを受け入れますが、アラブ側は拒否しました。 1948年、ユダヤ側がイスラエル共和国の成立を宣言すると、これを認めないエジプトなどのアラブ諸国は、イスラエルに対して戦いを挑みました。これが第1次中東戦争です。しかし、戦いはアラブの連合軍の足並みがそろわず、イスラエル有利のうちに休戦し、その結果、イスラエルは「パレスチナ分割案」でアラブ人居住区と定められた領土の一部を占領したのです。 中東戦争は以後4次にわたって発生しますが、特に第3次中東戦争ではイスラエルが圧勝してパレスチナ全土を占領し、また、エジプトからシナイ半島、シリアからゴラン高原といった領土を奪い取ってしまいました。さらにイスラエルは、1947年の国連決議を無視する行動に出ます。「国際管理地区」と決められていたイェルサレム全域を確保して、イスラエル共和国の首都であると一方的に宣言したり(ただし、国際社会はこれを認めていません)、占領したアラブ居住地にユダヤ人の住宅建設をすすめたのです。 このように何度も戦争が起こり、問題が複雑化していった根本原因はイギリスのとった政策にあると前にもお話ししたとおりです。しかし、第2次世界大戦後はさらに別の要因が加わってくるのです。 イギリスやフランスは、かつては世界中に植民地を持つ大国でした。ところが第2次世界大戦でドイツに勝ったものの、その国力は大いに低下し、今までのように植民地支配を続けられなくなってしまいます。そこで、多数の国々が戦後独立をはたせたわけですが、イギリスやフランスは、独立は認めても帝国主義時代に獲得したいろいろな利権だけは手放そうとはしません。 中東に限ってみれば、そこは重要なエネルギー源である石油が大量に存在する場所です。また、地中海とインド洋をつなぐ要衝であったため、19世紀の後半、エジプトにスエズ運河が建設され、イギリスとフランスがその経営権を握っていたのです。中東の国々では、依然として残る帝国主義的支配に反発し、奪われた石油利権などを取り戻そうとする民族主義が高まってきたのです。 中東戦争のうちでも、特に第2次中東戦争はこのような民族主義を背景にしてこったものです。1956年、エジプト大統領ナセルはスエズ運河の国有化を宣言しました。このことは、スエズ運河を支配するイギリスとフランスにとっては絶対に許し難いことですから、両国はエジプトと敵対しているイスラエルと共に軍事行動を起こしたのです。 しかし、国際世論はエジプトに味方しました。3カ国の行動に対して非難の声がわき起こったのです。このため、3カ国は目的を果たせぬまま撤退しました。この事件はアラブ民族主義の勝利と位置付けられています。 さらにもう一つ、中東問題をこじらせたものが米・ソの「冷戦」でした。第2次世界大戦後、イギリス・フランスにかわって世界の指導権を握ったのがアメリカとソ連でした。アメリカは資本主義陣営のリーダーとして、またソ連は社会主義陣営のリーダーとして互いに対立を深めていきます。中東でイギリスやフランスの力が後退すると、それに変わってアメリカが石油利権を狙って進出するようになり、またソ連も自己の影響力を伸ばそうとしてきます。 アラブ諸国は、イスラエルにイギリスやフランスなどの資本主義国が支援を与えたことに反発してソ連に接近をはかるようになり、その軍事支援を受けていきます。これをみたアメリカは、ソ連の力が中東に伸びていくのをおそれ、イスラエルに軍事援助を与えることになるのです。 オイル=ショック 中東戦争の中でも、我が国や世界中の国々に最も深刻な影響を与えたものはどれか?それはおそらく第4次中東戦争でしょう。この時、世界はパニックに陥ったのです。 1973年、イスラエルとエジプト・シリアの間に第4次中東戦争が始まると、OPEC(石油輸出国機構)に加盟する中東諸国が原油価格の引き上げを発表しました。また、アラブの産油国だけで結成していたOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が、イスラエルを支持している国に対しては、「石油をまったく売らないか、もしくは供給を減らしてしまう。」と発表したのです。実際、イスラエルを援助していたアメリカなどに対しては、石油の全面禁輸措置がとられました。 OPECやOAPECなどのアラブの産油諸国の狙いは、石油を武器にすることで国際社会での影響力を強め、敵対しているイスラエルを孤立させることにありました。これを石油戦略といいます。この効果は絶大でした。今まで、イスラエルを支持するか、または好意的な態度をとってきた日本やヨーロッパ諸国は、次々にその外交方針を転換していき、アラブ寄りの姿勢をとるようになるのです。それまで日本を含めた先進国の経済発展は、安いエネルギー「石油」に支えられてきたので、この石油戦略に対して、世界はパニックに陥ったのです。この時、石油価格はそれまでの4倍にまでハネ上がったのです。 「もし、石油が入ってこなくなったとしたら・・・・・・」、こんな不安が社会をおおい始めたとき、日本で奇妙な現象が起こりました。いわゆるトイレットペーパー騒動です。スーパーマーケットなどにお客が殺到し、トイレットペーパーがなくなってしまったというやつです。 「石油戦略」と「トイレットペーパー」。この二つはどう考えても関係がないように思えるのですが、市民の間には「石油が入ってこなければ、石油関連製品の値段が上がったり、もしくはなくなってしまうかもしれない。もしそうなれば、日常生活に支障をきたしてしまう。」という不安が流れました。当時はすでに水洗トイレが一般化していましたから、もしトイレットペーパーがなくなれば、それこそ毎日の生活に支障が出てしまいます。「品物がなくなってしまうかもしれない。」という不安が、このパニックを引き起こしたのでした。 この騒動は、大阪のスーパーから始まったとされています。私は2年ほど前に、大阪にある某ラジオ局の放送でこんな話を聞きました。そのラジオ局では、1973年の当時、毎日各地に移動中継車を出して番組の中でリポートしていたそうです。その時たまたま通りがかった千里のスーパーの前に、なんの目的かはわかりませんが、買い物客が行列をつくっていたらしいのです。レポーターはそれをそのまま番組の中でしゃべったのですが、どうやらこれがきっかけとなってトイレットペーパー騒動につながったというのです。この話は私が自動車を運転中にたまたまつけていたラジオ番組で聞いた話なので、記憶も曖昧になってますから、もし事実と違うときはどうかご容赦下さい。 でも、これと似かよったことは阪神大震災のときに体験したのです。私は神戸に住んでいるのですが、地震が起こったあと、自動車に乗って両親や親類の安否を確かめに、長田区方面に向かいました。午前中は、被害の少ない地域では、道々のコンビニは平常通り開店しており、客が押し掛けているといった風には見えませんでした。しかし、午後に入って、ラジオ放送で、コンビニに客が殺到し、品物がなくなって店を閉めているという情報が流れました。その後の結果は予想通りです。開いている店などどこにもありません。清涼飲料水を扱っている自動販売機も、アルコール以外はすべて売り切れていました。 話を元に戻します。アラブの石油戦略はその後解除されますが、世界は物価高と不況に苦しむようになります。現在も毎年開かれているサミット(主要国首脳会議)は、もともと、オイルショックによる世界経済不況打開のため、先進国の首脳が集まって今後の対応を協議しようということで開かれたものなのです。ちなみに、当時は先進国首脳会議と呼んでいました。 オイルショックは1979年にも起こります。この時はイランで革命が起こり、石油が減産したことで発生しました。日本は石油消費の節約によって、これらのオイルショックの混乱をおえようとしました。「省エネ」という言葉が生まれたのもこの頃のことです。デパートやスーパーの営業時間の短縮、エレベータの使用制限や夜のネオンが消されたりしました。また、夜12時以降のテレビの深夜放送も自粛になってしまいました。さらにファッション界にもオイルショックは影響を与えました。 皆さんは「省エネルック」というものをご存じでしょうか?夏の冷房用電力を節約するために考え出されたものなのですが、ノーネクタイのスーツスタイルで、しかも、スーツの上着が半袖という代物です。はっきりいってこれを見たときは、何とも奇妙なものが登場したなと思ったものです。考えようによっては、とても合理的な発想ですが、そこまでするなら、Tシャツかアロハシャツでもいいのじゃないかと思いましたけれど。 当時は政治家が中心となって、ニュースでさかんに「省エネルック」の普及をすすめようとしました。私の記憶では、テレビに映る政治家の多くが身につけていたような気がします。でも数年後には、まったく姿を消してしまいましたが、ただ一人だけ今でも夏になると「省エネルック」のようなファッションを身にまとっている政治家がいらっしゃいます。 「地球温暖化をおさえるための二酸化炭素の削減」が提唱されながら、一方では「省エネ」という言葉や考え方が逆に風化している昨今、彼のように信念を貫く政治家がもっとたくさん現れて欲しいと思います。 次回こそ、いよいよシリーズ最終回です。 |