シリーズ:パレスチナ問題って何だ?
〜その5:産業革命と第1次世界大戦〜

 皆さん、こんにちは。古代から始まったこのシリーズも今回で5回目を迎え、ようやく現代史の入り口まできました。パレスチナ問題の核心的部分を扱うところです。前回、新航路を発見したヨーロッパ人が、世界貿易を支配するようになり、次第に冨を蓄えて「産業革命」を起こしていく・・・・・、というところまでお話ししました。今回はその「産業革命」の発生からみていくことにします。
 
 
 「産業革命」とは、機械が発明されたことにより、それまで人間が道具を使って手作業で行ってきた生産システムが根本的に大変革を遂げたことを指します。

 その結果として資本主義経済が確立するなど、経済や社会のあり方が大きく様変わりしていくことになるのですが、この産業革命が始まったのは、18世紀後半、つまり今から約200年ちょっと前のイギリスでした。でも、当初は機械化されたといっても、木綿工業という繊維部門の軽工業に限られたもので、動力機関にしても、蒸気機関があらわれたにすぎませんでした。

 しかし、その後この産業革命がヨーロッパ諸国に広がっていく中で、次々と新しい技術革新の波がおこりました。電気や石油といったエネルギー源が、新しい時代の主役になる時代がやってきたのです。

 発電機やモーター、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンが発明され、それに伴って、電灯・電車・電話・ラジオ・映画・自動車・飛行機など、今のわれわれの生活に直接関係してくるものが、19世紀の後半から20世紀の初め頃の、今から100年ほど前に誕生し実用化されていったのです。

 
 このような新たな産業、つまり重工業の発生は生産設備に巨額の費用を必要としたので、大企業の出現をもたらすことになりました。また、これらの新製品をつくるためには、新たな天然資源が必要となりました。しかし、それはヨーロッパではまったく産出しないか、あるいは産出されてもごくわずかなものにすぎませんでした。

 自動車を例に挙げてみるとわかりやすいと思うのですが、自動車が走るためには燃料としてガソリンが必要です。また道路の上を快適に走るためにはゴムでできたタイヤがないとダメですね。しかし、当時のヨーロッパでは石油(ガソリン)やゴムといった天然資源は産出されていなかったのです。

 企業家たちは、それらの資源を求めてヨーロッパの外へと出かけていくことになります。そしてより高い利益を求めて、人件費の安いアフリカやアジアなどの、当時は後進地域とされていた国々で鉱山や油田を開発したり、ゴム農園を経営したり、鉄道を建設するといった、現地での新しい企業設立を考えるようになりました。

 しかし、いくら現地に新しい企業を作ったとしても、それが安全にかつ安定的に経営されなければ、誰もそんなリスクの大きな事業に投資したりはしませんよね。だから投資家や企業家たちは、自分の国の政府に自分たちの利権を保障してもらうことを求めるようになり、それぞれの政府は軍隊を使って強引に後進地域を植民地化していくようになっていくのです。


 19世紀の後半から20世紀の初め頃にかけて、欧米の先進資本主義国(後に日本も加わってきますが、これらの勢力を列強といいます。)によって、世界の後進地域が植民地・半植民地化されていきました。これらの現象を「帝国主義」といいます。

 各列強は自分の国の利益のために競って帝国主義政策を進めたので、19世紀の末期頃から列強どうしの対立が激しくなり、大きな戦争がおこるようになりました。日露戦争や第1次世界大戦、また第2次世界大戦は、まさに帝国主義のぶつかりあい、簡単に言えば植民地の取り合いのための戦争だったのです。



 さて、こういう状況の中でパレスチナ問題の直接的な原因がつくられていくのです。話を中東地域にしぼってみていきましょう。

 前回お話ししたように、中東地域はオスマン=トルコ帝国が支配者として君臨してきたところでした。しかし、19世紀になると産業革命を体験したヨーロッパの列強諸国は、経済力だけではなく強大な軍事力をもつようになり、オスマン=トルコ帝国を圧迫するようになります。

 特にイギリス・フランス・ロシアはこの大帝国に狙いをつけ、ことあるごとに戦争をしかけたり、政治や経済の分野に介入したため、オスマン=トルコ帝国は次々に領土を失い急速に衰退していったのです。


 1914年、列強同士の対立がついに破局を迎え、第1次世界大戦が始まりました。オスマン=トルコ帝国もこれに巻き込まれ参戦することになりました。この大戦の関係をみると次のようになります。

連合国 同盟国
イギリス
フランス
ロシア
など
× ドイツ
オーストリア
オスマン=トルコ帝国
など
 この対立関係図に出てくる国以外にも多くの国が参戦し、最終的には、双方あわせて31ヶ国という文字通りの世界大戦となったのです。

 イギリスはこの戦争を有利に進め、そして勝利を得るためにあらゆる手段をとりました。

 まず、アラブ人の民族独立運動を利用し、対トルコ戦に役立たせようとしたのです。もともとイスラム世界を生み出したのは、ムハンマド以来のアラブ人たちでしたから、オスマン=トルコ帝国の支配下におかれて以来、アラブ人たちの中には強い反トルコ感情があったのです。

 イギリスは戦争協力を条件にアラブの独立を約束すると通告しました。これを「フサイン=マクマホン協定」といいます。そしてアラブ人たちはいっせいにたちあがり、オスマン=トルコ帝国と戦い始めました。

 ちなみに、この時イギリスの軍事顧問としてアラブ軍を指導し、アラブの独立のために勇敢に戦ったイギリスの青年将校がいました。その人が映画にもなった「アラビアのロレンス」なのです。


 また一方で、イギリスはユダヤ人に対しても戦争協力をとりつけようとします。ユダヤ人が中世以来、金融業に従事してきたことを思い出して下さい。イギリスは戦争のための資金提供を求めて、ユダヤ教財閥に「シオニズム運動」支持の約束を表明したのです。これを「バルフォア宣言」といいます。

 では、「シオニズム運動」というのは一体何なのでしょうか?それはユダヤ人のパレスチナへの復帰・建国運動のことを指します。

 19世紀の末期頃、ヨーロッパでは再び反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていました。ユダヤ人に対する略奪・虐殺、またドレフュス事件といった冤罪(えんざい)事件も起こりました。ドレフュス事件というのは、フランスのユダヤ系将校のドレフュスが、無実であるにもかかわらず、ドイツのスパイであるとの容疑をかけられ、終身刑にされてしまった事件です。

 結果的には彼は無罪をかちとりましたが、この事件はドレフュスという人物がユダヤ人であったために犯人に仕立てられたという側面があったので、ヨーロッパのユダヤ人に大きなショックを与えることになったのです。「われわれユダヤ人が迫害を受け続けているのは、国を持たない民であるからだ。国家建設のために、かつて祖先が神によって約束されたパレスチナに戻ろう。」という決議が、19世紀の末になされたのです。これがシオニズム運動の原点です。


 イギリスが第1次世界大戦になんとしても勝つためにとった、アラブ・ユダヤ2つの民族に独立・建国を認めるという、2つの外交政策が今日に至るまでのパレスチナ問題の直接的原因なのです。

 つまり、「フサイン=マクマホン協定」と「バルフォア宣言」には大きな矛盾点があります。それは「パレスチナ地方」のとりあつかいです。パレスチナ地方は、イスラム世界の独立以来、新たにアラブ人が進出し新たに住みつくようになったところです。フサイン=マクマホン協定」でも、アラブ独立国家の領土となるはずだったのです。

 ところが一方で、イギリスはユダヤ人にこのパレスチナ地方に国家建設を認めるという二重外交(二枚舌外交)を行ったのです。そればかりではありません。イギリスはフランス・ロシアとともに、オスマン=トルコ帝国の領土を山分けしようと、裏でこっそりと秘密協定を結んでいたのです。これを「サイクス=ピコ協定」といいます。



 これらイギリスの二重・三重の外交により、アラブ人たちの民族国家樹立の夢はうち砕かれました。

 第1次世界大戦後、独立したのはサウジアラビアぐらいなもので、他のアラブ人地域はイギリスやフランスの事実上の植民地(委任統治領といいます)とされてしまい、現地の住民の意思をまったく無視して境界線がひかれアラブの民族は分断されていきました。この時の境界線が、現在のシリア・レバノン・イラク・ヨルダン・パレスチナという国家(地域)の国境線となっているのです。

 このようにしてイギリスを中心とした大国のエゴは、現在まで続く「民族紛争」という災いの種を蒔いていったのです。



 この後、パレスチナはどうなっていくのでしょうか。次回のシリーズ最終回をどうかお見逃しなく。