第31話 生活文化史(3)
〜中世の生活〜
桜満開、いやもう散り始めてる時期になりました。新年度を迎え、皆さん元気でお過ごしでしょうか?3月からわずか1ヵ月しかたっていないのに世界ではいろいろなことが起きています。何よりもイラク戦争の開始は、このコーナーで戦争史を扱った関係もあり、私には本当に許せないことです。 どんな精密な兵器を使っても、誤爆はあり、その結果関係のない市民が傷つき、死んでいきます。テレビニュースや新聞にも子どもたちの痛々しい姿が目立ちます。戦争は障害者を生み、子どもを傷つけます。世界の人々が反対の声をあげているにも関わらず戦争は継続され、終結しようとしています。一体イラク戦争は誰のために行われた戦争なんでしょうか。 確かにフセインの悪政は批判されるべきですが、その政権を倒すのは、イラクの国民であって他所から攻め込んでいいというものではありません。それが「正義」だと言ってはばからないアメリカの姿勢は21世紀初頭の現在、大いに批判されるべきでしょう。でも、この間の報道を注意深く見ていると、若い人たちが戦争反対の声を各地であげていることに勇気づけられました。大阪では、「戦争あかん」の人文字を作ったり、高校生たちが立ち上がったり、私のようなおっさんは「若いやつも結構やるやん」と思いました。 もう一つは、ただ今東南アジアを中心に広がっている急性肺炎。新型なんだそうで。これには少し参っているんです。だって、今月終わりからベトナムに行く予定なんですもの。それも、個人的な旅行っていうものじゃないんで。会う人ごとに、「大丈夫か?」とか、「マスク買ってもっていけ」とかおっしゃるのです。まだ行きもしないうちから肺炎にかかってると勘違いしてる御仁もいらっしゃたりして。もう迷惑きわまりないのです。まあ本人としては大丈夫とふんでいるんですが、体力をつけて十分気をつけて行くことにしたいと思っています。 さて、本題に入らないといけません。え〜とそうそう、生活文化史の中世編でした。 中世に入って都市には2種類のものが誕生します。一つは、伝統的な都=京都であり、もう一つは武士の作り上げた地方都市である鎌倉です。もちろん、室町時代になると京都が名実共に都であり、武士の支配する都市になっていったが、鎌倉の持つ意味は依然として重要で、だからこそ室町幕府は足利氏を鎌倉府の将軍として派遣したのです。 さて、鎌倉時代には公家の都市であり、都であった京都と武士の都市である鎌倉の2つがそれぞれ拮抗していました。まず武士の都市としての鎌倉について触れた後、武士の生活について述べていくことにしましょう。中世都市鎌倉は、そもそも源頼朝の父義朝が、東国支配の根拠地とした所で、三方を丘陵で囲まれ、南は海にのぞむ要害の地でした。中央の低地帯には鶴岡八幡宮と若宮大路を中心に各道路によって区画された都市が成立していました。こうした場所に幕府は各行政機関を作り、それを拠点に政治を執り行ったのです。 ところで、武士はもちろん鎌倉にも住んでいたのですが、それはごく限られた武士であり、しかも執権である北条氏といえども質素な生活をしていたようです。例えば、源頼朝が家臣の筑後権守俊兼 (ちくごごんのかみとしかね)のきらびやかな衣装を見て、刀を取り、その袖を切り取った話や、北条泰時の屋敷の板塀がひどく貧弱だったので、家臣が築地塀を作ろうとしたら、泰時は人夫を集めるのが大変であり、貧弱というが、自分の運がつきれば鉄の塀であっても助からないといって辞退した話、さらには、北条時頼も一族の大仏宣時 (おさらぎのぶとき)を迎えて味噌を肴に酒を飲んだ話などが有名です。 「質素倹約」という言葉は、「贅沢飽食」の今の日本では忘れ去られたように思われるのですが、将軍や執権といえども、本当に質素な生活をしていたようです。若い女性秘書と金儲けにいそしんでいた代議士に聞かせてあげたいお話です。といってそんことわかるくらいなら問題起こしていませんよね。 鎌倉以外に居住していた武士は、一般に荘園の管理者(荘官=地頭)として生活していました。良く知られているように、武士は日常的に騎射三物(笠懸・犬追物・流鏑馬)の訓練を怠りませんでした。彼らは田畑に囲まれた場所に住まいを構えていました。その住まいは「堀の内」「土居」という地名が現在にも残っているように、堀や土塁に囲まれ、物見と合戦に備えて櫓を門に構え、武器と番兵を置く遠侍という別棟を置き、下人小屋と馬小屋を備えたものでした。その母屋は板葺き・板敷きで畳を敷きつめず、全体として寝殿造りが非常に簡素化されたものでした(大抵の教科書に掲載されている「一遍上人絵伝」の武士の館を是非ご覧ください)。 彼ら武士の食生活は、貴族のような迷信にとらわれたものではなく、玄米の強飯をたくさん食べ、巻狩りでとったイノシシ・鹿をあぶって食べ、魚や貝の干したものを盛んに利用したので、なめ味噌・梅干し・鰹節・干しアワビといった戦争食の発達と共に体力を増す健康食が特徴だったと考えられています。このような変化は衣服にも現れ、平安期に庶民の普段着であった直垂が武士の普段着となり、礼服としては、平安期の下層官人が着た水干が着られるようになりました。つまり、行動に便利なツーピース型になっていったのです。但し、甲冑だけは派手になり騎馬戦に適した鮮やかな大鎧 (おおよろい)が生まれ、それぞれの家門を示す紫・青・赤の組み紐を使用したそうです。 もちろん、室町時代になって都に住む武士が貴族化し、生活が華美になっていったことは事実でしょうが、地方に住む武士の生活が大きく変わったとはいえないでしょう。しかし、住居は室町後期に書院造が生まれ、今の日本住宅の原型ができます。書院造は、有名な銀閣の東求堂同仁斎が知られています。ここは、間仕切りによって1棟を数室に分け、明障子・引き戸を使って扉を排し、丸柱をやめて角柱にし、畳を部屋一面に敷きつめるようになっています。しかも、床(現在の床の間)・棚(違い棚)・作りつけの机(付書院)が発生し、この建築に用いられていきました。 おそらく一番変化がみられたのは、衣料と食事でしょう。これまで庶民は麻以外に衣料を持たなかったのですが、戦国時代に中国から木綿が輸入され、三河地方で栽培が開始されるとこれが各地に広がり、庶民の衣料として用いられます。一度、柳田国男さんの『木綿以前のこと』をお読みください。食事も室町時代に中国との交流、なかでも禅僧らの交流によって中国伝来の油の使用、茶・砂糖、豆腐・饅頭などが作られるようになり、精進料理や点心と称する間食の風もおこりました。 特に、喫茶の風習はわが国では一つの芸能(芸術)にまで高められました。今の茶道です。茶の木自体は奈良時代にすでにもたらされていたともいわれていますが、鎌倉時代になって茶の効能が説かれるようになりました。臨済宗の開祖栄西は、3代将軍源実朝に『喫茶養生記』を提出し、そこで茶の効能を示しました。 もともとお茶は、禅宗寺院で一腕のお茶を師弟が順々に飲み廻すものでした。また、農民は粗末なお茶を飲み合って親しさを増そうと茶寄合をしていました。この頃のお茶は、今のように茶の木の葉を細かくして干したものではなくて、握り拳程に固めたものを、大きな土瓶などに入れて、お湯を注ぐというものだったそうです。 南北朝内乱期になると、武士や庶民は闘茶をはじめます。これは、京都栂尾の茶かそれ以外の茶かを区別してその点数を競う、一種の賭け事です。何でも賭け事にしていまう庶民のバイタリティーが感じられます。まあ、利き酒のお茶バージョンだと思っていただくといいと思います。これに対して、足利義政を代表とする上層の茶が存在します。いわば、中国文化を楽しむサロンの茶でした。 中世という時代の中でこれまでの生活から大きな変化があったのは、おそらく庶民の生活だったのでしょう。鎌倉や京都に住む都市の民衆と農村・漁村部などに住む庶民の暮らしは違いがあるのですが、全体的にはこの時代大きな変化がゆっくりとはじまっていました。 まず、農村・漁村などの庶民の生活を取り上げましょう。中世の農村は、荘園であれ国衙領であれ、農家の自然な集まりである集落から成り立っていました。但し、荘園・国衙領と村落との関係は一様ではありません。1つまたは2つの村落がまとまり、1つの荘園を作っている場合もあるし、隣り合う村落の一方が荘園で、もう一方が国衙領ということもあります。 これは支配層の都合で分けられていたのであり、農民自身が作り上げたものではありません。農民は一般に百姓とよばれたが、百姓は別に庶民全体をさす言葉として用いられた。農民はさらにいくつかの階層に分かれていた。まず、名主 (みょうしゅ)とよばれる有力農民。彼らは自らの名田を持ち、耕作をしながら年貢・公事・夫役の負担義務を負っていました。一般農民は作人とよばれ、田畑の耕作を請け負っていました。百姓の年貢納入義務は、契約に基づいていて、その地位は安定したものでした。 作人は貧しいながらとりあえず自分の家を持ち、名主の持つ名田を耕作させられて加地子(かじし)という高額の小作料をとられました。これに対し、下人・所従は、地頭や名主に隷属する農民で、主人の屋敷内に住み、主人の直営地(佃・正作田)の耕作や雑役に使われました。また、相続・譲与・売買の対象ともなりました。村にはさらに職人たちも住んでいました。鉄製農具の普及に伴い、鍛冶師(かじし)・鋳物師(いもじ)などがいました。 それでは名主をはじめとする農民はどのような姿をしていたのでしょうか。農作業する男性は、腰に蓑をまとっていた。腰蓑というと、私たちは浦島太郎の漁民の姿を思い浮かべることができますが、中世農民の男たちは腰蓑をつけて田植えなどの農作業をしていたのです。この姿は近世に入ってもほとんど変化がありません。 蓑は雨や雪を防いだり、泥土や強い日光を避けたりするのに用いられるのが普通ですが、男たちは何もそうした用途のために腰蓑をつけていたわけではなく、農作業をする男としてのシンボルだったのです。女性ももちろん農作業に加わります。しかし、特別の姿をしたわけではなかったようです。 さらに中世の男性特有の姿があります。それは、男たちは普通烏帽子をかぶっていました。武士・百姓・商人・職人は必ず烏帽子をかぶっていました。僧侶・女性・子どもは烏帽子をかぶってはいません。何故烏帽子をかぶるようになったかというと、武士や百姓は、成人すると子ども時代の髪を切り、髻(もとどり) を結いました。つまり、髪の切り口は不浄なものとされ、烏帽子をかぶったそうです。 南北朝内乱以後、農村は大きな変化を遂げます。内乱で武士階級が台頭し、有力寺院・神社・公家などの力が弱まり、彼らが領主となっていた荘園が次第に解体していったのです。一方、荘園内部では、戦乱に対する自衛や、農業生産の協力などで農民たちは村ごとに地域的な結合をはじめます。この自治的な結合組織を惣村(郷村)といいます。 惣の内部は、年齢階層により乙名・沙汰人などとよばれるグループと若衆とよばれるグループに分かれていました。そして惣では意志決定のために寄合が開かれました。ここでは、入会地・用水の管理や村内でおきた事件の解決・惣の財産管理・神社の祭礼などのことが決められました。寄合は主に村内の神社で行われ、農民は一味神水を行い団結を強めます。この一味神水というのは、神仏の前に供えた水(神水)を神の前で互いに飲み交わし、神の意志と人の意志が通いあうことで人々の合意がはかられ、行動の正当性が確認されるいうものです。 この行事は、村掟の決定や、逃散、一揆の蜂起の際などに行われました。惣村はだから、室町時代に頻発する土一揆の基盤となったのです。しかも村は、自ら警察権を有し、違反者に対しては、村からの追放や罰金などの罰則を決めていた。これを自検断(地下検断)といいます。また、年貢も村全体で請け負い、一括して荘園領主に納めるようになりました。これを百姓請(地下請)といます。この時代を通じて、百姓の自立が強くなっていったといえるでしょう。 猟師(山民)は、狩猟道具や獲物を持つ姿として絵巻物などでは描かれています。猟師は狩猟だけが仕事ではなく、樵夫 (きこり)にもなりました。彼らも折り烏帽子をかぶったり、なにがしかのかぶり物をかぶっています。では、川・海の近くに住む漁民はどうでしょうか。烏帽子をかぶる者もいますが、大抵は市女笠をかぶっていて、これが漁民としてのスタイルだったようです。 村だけが庶民の生活の場所ではありません。鎌倉や京都にはたくさんの商工業者が住んでいます。彼らの中には、天皇家・摂関家・大寺社などと結び座を結成し、座役を出すかわりにその保護を受けて販売や製造の独占権を得る者もいました。また、地方にも市が立ちました(これも、教科書に掲載されている「一遍上人絵伝」の備前国福岡の市の絵をご覧ください)。鎌倉時代には月3回の定期市である三斎市が、荘園の中心地や海や川の船着き場など人々の集まるところに開かれます。室町時代になると市が開かれる回数が増え、六斎市となっていきました。 |