第29話 生活文化史(1)
原始から古代にかけて



 

 随分ほったらかしの状態が続きました。1月はお正月の期間を除き、とても忙しくてやらないといけないとはわかっていたんですが、このコーナーをパソコンに打ち込む時間が全くといってありませんでした。それにパソコン自体が調子が悪くて困りました。そういうことで、ブランクがあったことをお詫びします。


 さて、センター試験も終わり、2次試験に向けて頑張っている人も多いでしょうね。何より風邪に注意して下さい。インフルエンザも猛威をふるっていますからこれにも注意して下さい。



 今回から何度かに分けて「生活文化史」というテーマでこのコーナーに発表したいと思います。これは、私の勤務先の授業で割合好評だった授業ネタです。教えていてわかったことですが、みんな当たり前のように思っている生活に関する歴史を知らないんだな、と感じました。このテーマは、大学入試でも近年結構取り上げられるようになりました。

 また、学習指導要領の改訂で、「地域の歴史」などの調べ学習が始まって、例えば、「おじいさん・おばあさんの子ども時代のことを聞いてみよう」とか、「昔の○○市(○○町や○○村)の生活について調べてみよう」などといったことがなされています。ところが、案外大枠のことを教えてもらわず、いきなり調べようと言われても困るんですよネ。子どもにすれば。

 だって大枠はどうだったかについて学校の先生教えてくれないし、図書館や図書室行って調べろ、とかのたまう割に、そう言った先公(ごめんなさい!!でも、子どもの身になればそう思いもしますヨ)自身が生活文化史に関する勉強をされていなかったり、自分が勤めてる市町村の歴史についてあまり勉強していないんですよ。これまた驚くくらいに。

 市町村史に関して言うと、大抵の市町村は住民の税金を使ってかなり分厚い市町村史を作っています。各学校にも教育委員会を通じて寄贈されたりしてるはずなのですが、あまり読まれていません。私も滋賀県の今津町という町の町史を書かせてもらう機会があったのですが、どれだけの町民の方々が読んで下さってるんでしょうか?折角、役場の町史編纂の方々と苦労して本にした割りには読んでもらっていないことが多いんです。

 もちろん、学校の先生方もあまり読んでらっしゃらない。せいぜい、町に住む郷土史家といわれる方がお読みになるくらいじゃ寂しいかぎりです。ザーッとでいいですから、是非先生方はご自分の勤務されている市町村の市町村史は読んでから子どもたちの指導をしていただきたいと思います。逆に言えば、それくらいの準備もしないで、調べ学習の課題を子どもたちに押しつけないで欲しいと私は思います。簡単に言えば、自分がわからないことを子どもたちに押しつけないで下さい、と言いたいのです。これじゃあまりに無責任ですよネ。


 ところで、私たちの祖先がどのような所に住み、どのようなものを着、食べていたかということが、生活文化史の中心です。この一見すればわかっていると思われることが意外とわかっていないんです。それを考えてみようと思います。


原始時代の生活

 旧石器時代の生活跡は、縄文時代や弥生時代に比べると極端に発掘例が少ないのです。例えば、住居跡にしても、痕跡を大地にとどめないテントのような簡単な構造であったために、具体的なことがわかっていません。といっても、全く住居跡が発見されていないわけではありませんが、住居の構造は一定せず、わずか1棟か2棟のもので、集落がどのように形成されたか今一つわかりにくいのです。

 おそらく、集落は短期的ないしは季節的な移動によって形成された狩猟用のキャンプのようなものと、本拠地として定住したものの2つに分けられると考えられています。これは、前者のキャンプは一時期の遺物しか発掘されないのに比べ、後者の本拠地と考えられる場所からは、何世代かの遺物が堆積していることから判断しています。

 では、集落はどの程度の世帯で構成されていたのでしょうか。発掘調査からすると、およそ2〜3家族程度で一つの集落を形成していたと考えられています。しかも、集落の規模は季節により異なり、狩猟に適した時期には集落はさらに小集団に分かれ、狩猟に適さない冬になると、いくつかの小集団が集まって生活するという具合に変化したようです。

 使用した道具は打製石器のみで、旧石器時代には土器はまだ作られていません。打製石器は、自然の石のまわりを打ち欠いてその核=中心部を利用した石核石器と、剥離された断片・かけらを利用した石器とがあります。さらに、打製石器も石斧(握槌)→石刃(ナイフ型石器)→尖頭器→細石器(マイクロリス)という順で発達をとげます。

 特に打製石器の中で最も発達をとげた細石器を主に使用した時代を中石器時代ともよんでいます。狩猟・漁労を中心とした生活でしたから、ナウマン象やオオツノジカなどの大形動物を倒して食べていたことは間違いないでしょう。すでに火の使用は知られていますから、肉をあぶって食べたのでしょうが、生食の場合も多かったと考えられています。

 縄文時代に入ると現在とほぼ同じ気候条件になります。まず、使用された道具としては磨製石器があります。なかでも磨製石斧は、木を加工するための道具で、竪穴住居や丸木船の作成の際に使われました。狩猟道具としての磨製石器も発達し、石鏃(矢じり)、石匙(皮剥)などが登場します。また、釣り針や銛が獣骨や魚骨により作られました(骨角器)。さらに、人間が化学変化を生活に適用させた最初の記念碑ともいうべき縄文土器が作られました。縄文土器は煮沸用の道具として出発したため、深鉢・浅鉢が大半を占めています。縄文土器の編年によりこの時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに分けています。草創期の土器には縄目文様が施されておらず、隆起線文や無文です。

 住居は竪穴住居ですが、1つの竪穴住居に1家族が住んでいたかどうかはわかりません。集落については青森県の三内丸山遺跡が有名です。湧き水に近い台地上に作られ、祭祀場ないし獲物の分配場であったと考えられる中央の広場を中心に、それを取り囲むように、円形ないし半円(馬蹄形)に竪穴住居が建てられていました。

 一口に竪穴住居といっても縄文時代の初めには隅丸型とよばれるものが作られていたのですが、時を経るに従い、円形に変化していきます。竪穴住居の外側には貝塚があり、貝殻・動物の骨・生活用具などが捨てられます。死者は、集落の側の共同墓地に手足を折り曲げて埋葬される屈葬で葬られ、特定の個人の富を示す副葬品は伴っていません。

 この時代の主食はドングリ・栃の実・クルミなどの堅果類です。これを主食に東日本ではサケ・マスを食べていたようです。木の実はあくを抜き、すりつぶしてクッキーのように焼いて食べたりもしました。場合によれば、動物の肉もこのクッキーに入れて焼いたようです。

 縄文時代は自給自足の経済でしたが、決して閉鎖的な社会ではなく、集団同士の接触や交流・物々交換などは活発でした。黒曜石・硬玉・サヌカイトの分布からそれは理解できます。


古代の生活(1)

 弥生時代に入ると水稲耕作が広がっていきます。とはいえ、すでに縄文時代晩期にはすでに水稲耕作が開始されていたという説もあります。というのも、稲科の植物は、珪酸(けいさん)を多量に含んでおり、稲が枯れて土の中で腐ってしまっても、珪酸が細胞の形をとどめた植物珪酸体=プラント・オパールとして残るそうです。縄文時代の地層を調べて、この珪酸が大量に発見されると水稲耕作をしていた可能性が高いという結果になるのです。

 ところで、稲は一般的にジャポニカとインディカの2種があります。日本で栽培されている米は弥生時代以来ジャポニカで、中国の雲南省原産の米が伝えられて、日本でこの時代に本格的に栽培されるようになったと考えられています。これまで米は直播きで栽培された考えられてきたようです。

 しかし、近年ではこの説は否定されはじめています。岡山県の百間川遺跡からは田植えをした痕跡が確認されているのです。そもそも、直播きの方が苗代を作り、田植えをする方が技術的に遅れたものと考えられて、直播き説が有力だったのですが、稲作は常に雑草を駆除しつつ米を栽培する必要があります。直播きの場合、よほどうまく除草しなければ稲は育ちませんから、除草した田に苗を植えた方が栽培しやすいのです。

 こういうことから、直播き説は否定されはじめています。また、米の食べ方についても従来の考え方が否定されています。これまで、米は甑(こしき)で蒸して食べると考えられてきました。しかし、発掘調査の進展により、甕の出土に比べ、甑の出土例が極端に少ないことがわかりました。しかも甕は煮沸用の土器で、甕に米が付着したものまで出土しました。こうして米は普通は現在と同様、炊いて食べられていて、甑で蒸すのは「強飯」(こわめし)として儀式用の食事として食べる特別の場合に限られると考えられるようになっています。

 弥生時代の道具は、鉄器・土器・木器が中心です。青銅器は祭祀用に用いられたので、実用具としては利用されず、政治的権力者がその力を誇示するために用いたものです。鉄器は実用具として使用されています。土器はいわずと知れた弥生土器ですが、縄文土器と作り方は変わりません。両者は、

(1)ロクロを使用しない
(2)窯を使わない
(3)1000度未満の温度で焼く

という共通点があります。

 但し、縄文土器に比べれば、様々な用途に応じた土器が作られるようになっていきました。甕=煮沸用、壺=貯蔵用、高坏=盛りつけ用、甑=蒸し器という種類があります。

 住居は、竪穴住居ですが、集落が形成される場所に変化があらわれます。縄文時代が台地上であったのに対し、沖積平野に集落が作られるようになりました。また、佐賀県吉野ヶ里遺跡に代表されるような環濠集落が作られるようになります。環濠集落とは、住居を囲んで濠(ほり) がめぐらされているもので、敵の侵入を防ぐ防衛的な意味がありました。さらに、石製の紡錘車によって糸を紡ぎ、木製の機織で織物も作られるようになったようです。

 邪馬台国のことを記した『魏志倭人伝』には、女は貫頭布を男は袈裟布を身につけていると記されています。死者は伸展葬が一般的になりました。木棺墓や甕棺墓が多いのですが、北九州などでは、巨石を使った支石墓が作られ、九州から関東にかけて方形周溝墓が作られたようです。これらの墓は共同墓地内に作られたのですが、なかには副葬品として銅鏡・銅剣・勾玉などが出土し、集団内に支配力を持つ特定の個人が登場してきたことを示しています。

 古墳時代に入っても農民の住居は竪穴住居だったようです。しかし、豪族たちは居館とよばれる高床あるいは平地式の住居に住むようになっていきます。また、古墳時代の後期になると、竪穴住居の壁際にかまどが作られるようになりました。道具は、弥生時代と大差はないのですが、U字型の鉄製刃先をつけた農具を使用し、大規模な灌漑などが行われるようになりました。

 土器も弥生土器の改良として土師器が作られ、儀式用には上薬を塗って焼いた須恵器が作られるようになりました。衣服にも変化がみらます。それは、埴輪や古墳の副葬品から判断できるもので、北方系の胡服が入ってきたことが知られています。男女共、上半身は衣 をつけ、男性はズボンのような褌を、女性はスカートに似た裳をはくようになりました。材料も麻・楮などの植物繊維でした。