第27話 近代の戦争
〜庶民にとって戦争とは(3) 子供と戦争〜



 

 いきなり寒くなってきました。私の住む町では、11月9日に初雪が降りました。これにはさすがにびっくり仰天!なにせ朝起きて、窓を開けたら屋根に雪が・・・!の世界でした。おかげですっかり風邪を引いてしまい、さんざんな11月でした。みなさんも風邪など引かぬように気をつけてください。風邪くらいとあなどるとひどい目にあいますよ。

 さて、今回は「子どもと戦争」というテーマを考えてみたいと思います。まず結論から言いますと、子どもは戦争の被害者であるという位置づけはどういう場合であっても変わらないと思います。ここで、どういう場合であっても、と言ったのは場合によって子どもが戦争に協力しても、それは子どもの責任とは言えないということです。戦争は子どもが始めるわけではありません。大人が(特に成人男性が!)始めるものです。前回は女性も戦争協力をしたことを記しましたが、もう少し限定すると、成人=大人の女性は、被害者であるだけでなく戦争協力をしたのだと言うことができます。それに比べ、子どもの場合は男の子であれ女の子であれ性別に関係なく被害者であるという所から考えないといけないのです。

 私は日頃「近代日本子ども史」を自分の勉強のテーマにしているのですが、「子どもと戦争」ということを考える時に真っ先に浮かぶのが、学童(集団)疎開、少年兵、戦災孤児です。この3つの小テーマのうちではじめの学童(集団)疎開については貧しいながら私自身が発表した論文がいくつかあります。次の少年兵についても、来年には大学の研究紀要に論文を発表してもらえるはずですので、それを利用して記してみたいと思います。残りの戦災孤児については、つい最近発表された本 −金田茉莉『東京大空襲と戦災孤児』(影書房)− を利用して記します。


1.学童(集団)疎開
 学童(集団)疎開については、このコーナーで一度取り上げたこともありますのでそれをまずお読みください。学童とは、今の児童=当時の国民学校生徒のことです。都市部の子どもたちは戦況の悪化に伴い、農村部(郡部)に疎開したのです。もっと詳しくその実態を知りたければ、これもすでに記しましたが、全国疎開学童連絡協議会のホームページにアクセスしていただければ要領の良い説明と共に写真が掲載されていますので是非一度ご覧ください。また、藤子不二雄さんのマンガに学童疎開をテーマにした「少年時代」という作品があり、これを映画化したものもあります。

 都市の子どもたちが戦争を避けて農村に移り住みそこで生活しつつ勉強するということを学童疎開といいますが、もう少し細かく分けることができます。つまり、親たちと共に一家で農村部に引っ越す(疎開)ことができる場合。これは非常に恵まれたケースです。次に子どもだけが農村部に住む親の親類などを頼って疎開するケース。前者に比べて条件は悪いのですが、まだマシといえるでしょう。しかし、農村部に今述べたような親類や縁者がいない場合は、子どもたちはまとめて(まさに集団で)都府県が決めた場所に学校ごと疎開をしました。これを学童集団疎開といいます。前の比較的恵まれた疎開を学校・都府県・市などはまず勧め、その後疎開先が見つからなかった子どもたちをまとめて疎開させたのですが、その集団疎開は1944年8月から実施されました。わかりますか?翌年に戦争が終わりますから、もう本当にぎりぎりの段階で子どもたちを疎開させたのです。といっても、疎開先は都府県・市などが割り当てた郡部の寺・公会堂・教会などで、そこから都市の子どもたちは、郡部の学校に通いました。

 集団疎開を経験した人たちの記録を読むとこの集団生活の辛さが記されています。ではどのような辛さだったのでしょう。

 第1に空腹。ともかく農村部であれ都市部であれ食べ物がない状態ですからお腹が減って仕方がなかったことが記されています。食べられるものなら何でも食べたのです。

 第2にシラミの発生。当時は今と違って衛生状態が良くなかったですし、そこに毎日集団で生活していますから、瞬く間にシラミが発生し、子どもたちを襲いました。教師や疎開先で協力してくれた人たちが必死に撲滅作戦を実施してもシラミは一向に減ることなく困り果てたということです。

 第3に集団生活の中での序列。つまりケンカが強い子が食事にしろその他の日常生活で優位に立つという構造です。教師の記録にはイジメやケンカはなかったということが記されているのですが、それは教師が気づかなかったか、無視したかであって子どもたちの中はまさに「弱肉強食」の世界でした。わずかな食べ物をボスに取られたり、冬に火鉢の側に座る「特権」はボスだけが持っていました。

 第4に寂しさ。それに伴う集団疎開生活からの「脱走」。今でいう小学生が戦争だというので親元から離れて生活するのです。初めは毎日合宿・遠足気分で過ごせても、次第にホームシックにかかる。夕方になると涙が出て、布団に入るとまた涙がこぼれるという毎日です。そしてついに仲間を誘って家に帰る。「脱走」です。線路を歩けばやがては住み慣れた家に戻れる。お母さんに逢える、その一心で「脱走」しても結局は子どもの足でそう遠くへは行けない。あるいは教師にバレて連れ戻される。

 こうした生活の中での楽しみはというと、食事が少し多かったり普段とは違うおいしいおかずなどが出た時か、遠く離れた疎開先に親がやって来る時。親はそんな時、我が子のためにと特別のおやつなどを持ってきてくれるのですが、場合によっては教師がこれを「管理」と称して取り上げ食べてしまうこともありました。実際政府はこういうことがないよう通達を出しています。もうこうなったら教師に対する信頼などありません。もちろんすべての教師がそうだったなどといっているのではありませんが、こういう不心得者の教師が引率者であれば、不幸としかいいようがありません。権力を笠に着て子どもの食べ物を奪ったのですから。

 ちなみに学童疎開は日本だけのものではありません。第2次世界大戦中にヨーロッパ諸国でも実施されていましたし、ベトナム戦争中、ベトナムの子どもたちも疎開しています。

 さらに、集団疎開にしろ疎開できた子どもはまだマシといういい方もできます。集団疎開をするにはお金がかかりました。当時で1カ月10円程の費用を親が支払ったのです。それが払えない家の子どもには特別の対応をしていますが、どれほどきちんと対応されたかは不明です。また、病弱な子ども、在日朝鮮人の子どもなどは疎開しなかった(できなかった)のです。障害を持つ子どもも同様です。学校側の非常な努力で疎開した例がいくつかあることを私は知っていますが、それはやはり非常に稀なケースだったと考えられます。


2.少年兵
 現在行われている戦争(民族紛争を含む)でも少年兵=子ども兵士が戦争にかり出されています。現在の状況については、是非ユニセフのホームページを開いて子ども兵士について知ってください。

 少しだけ現在の子ども兵士について記しますと、子どもを誘拐し兵士としての訓練を行うことまでなされているようです。子どもたちは素直で従順ですから、例えば両親が戦闘に巻き込まれ「敵」に殺され行き場を失ったり、あるいは成人の兵力不足を補う目的で先に記した通り誘拐されたりして、兵士として訓練されると非常に「優秀」な兵士になるそうです。

 しかも、近年の兵器は子どもが持っても軽く性能が良くなっています。言い換えればごく簡単に人を殺すことが可能な兵器が子ども兵士に与えられているのです。素直で従順な子ども兵士は、戦いしかしらず(殺人しかしらず)「成長」していきます。彼らにとれば戦争以外の平和な生活など知らないのですから仕方がありません。

 ところが、長く続いた戦争(紛争)もやがて終了します。大人は精神的にも強く、戦争の日々から平和な生活にスムーズに移ることができますが、子ども兵士たちは生活そのものが戦争=殺人の連続でありそれ以外を知りません。こうなると戦後の生活は非常に困難なものとなります。殺人以外の生活は彼あるいは彼女にはこれまでなかったのですから。このような問題が現在起きているのです。

 ところで、日本でも子ども兵士=少年兵は、陸・海軍に存在していましたし、現在の自衛隊にも同様の養成機関が存在しています。このことについて明らかにした研究者は極めて少ないのが現状ではないでしょうか。戦前、学校教育を通して少年兵応募に協力した教員は、そういう事実がまるでなかったように振る舞い、大半は自らの責任を問い直すことなく、戦後も教員として今度は「民主主義」教育を行ったのです。

 また、兵士そのものとは若干性格が異なるものの満蒙開拓青少年義勇軍に応募し、中国東北部に渡った子どもたちも政府からの割り当て→都府県→市町村→国民学校(教員)の指示という構造の中で、応募に応じていったのです。学校教育の、特に教員の問題は依然として明らかにされることなく、日本には少年兵など存在しなかったような軍事史研究がなされていることに私は疑問を感じます。私は海軍特別年少兵(海軍特年兵)と呼ばれる少年兵についての貧しい研究成果を発表する予定ですが、その存在も当時の関係者が中心になって様々な体験談を発表されていたからわかったという程度のものなのです。

 おそらく、日本の少年兵も戦争が続く時代背景の中で、学校を通じて繰り返される軍国主義教育を身につける中で「お国のために兵士となり戦いたい」と考えるようになり、決して易しい試験ではなかった試験に合格し、少年兵になっていったのでしょう。もちろん彼らの中には戦死した人たちも多数いたのです。しかし、戦後彼ら少年兵のことまで配慮し記された軍事史研究などは非常に少ないのです。戦争に子どもも兵士として加わったことは事実です。少年兵が何故生まれなければならなかったのかというと、兵力不足を補うためです。では、少年兵はどのような仕組みで応募し養成されていったのかという問題が残りますし、実際に少年兵は戦争中どのような兵力となったのか、どれくらいの少年兵がいて、どれだけの少年兵が戦死したのか、戦後の少年兵の生活はどのようなものだったのかなどが明らかにされる必要があると思います。

3.戦災孤児
 私は、戦争によって両親をなくし孤児になってしまうことが一番の悲劇ではないかと思います。昨日まで親がいる(いて)その庇護のもとで暮らしていたのに、今日になると突然この世に自分一人しかいない、その喪失感は非常に大きいものだと思います。先に紹介した本をお書きになった金田茉莉さんも、学童疎開中両親を東京大空襲で失い孤児になった方です。私は金田さんが丹念に史料を集められ、書かれた文に感動しながら読みすすみました。

 私も学童集団疎開のことを調べているうち、大阪空襲で両親がなくなり、親戚に引き取られた子どもがいたことを知っています。こういう例はたくさんあると思いますが、なかなか歴史の表面には現れません。しかも、この事実を知った時、私は引き取ってくれる親戚がいて良かったと思いそれでしまいだったのですが、金田さんの本を読むとそう簡単に解決できたと考えてはいけないことを知りました。何故なら、親戚が孤児になった子を引き取るといった場合、それは孤児を「安い労働力」、つまり奴隷に近い存在として利用するためにとして引き取ることがあるのです。

 もちろん孤児になった子が可哀想だから、自分の子と同様に育てるという人もたくさんいたでしょう。しかし一方で、奴隷に近いような存在として孤児を働かせた親戚もいたことも事実です。そして二言目には「食わしてやっている」と言われ続け、肩身の狭い思いをしながら生活しなければならなかった孤児たちがたくさんいるのです。

 そもそも政府は戦災孤児の正確な数を調査することすらしなかったようです。あわせて、空襲で亡くなられた人たちの実数も調査していません。孤児たちは、施設に収容されるか、親戚の家でやっと食べさせてもらいながら無茶苦茶な労働をさせられたり、女の子の場合、ひどい時には親戚の人たちによって売春組織に売られたり売春を強要されたりしたのです。


 以上、あまりうまくまとめることができませんでしたが、私は大人それも教師の責任は大きいと考えざるを得ません。くり返しますが、教師は子どもを戦場に赴かせることに協力し、学童疎開中に子どもの食べ物を奪うひどい教師もいました。すべての教師がそうだったとまでは言いませんが、自分が戦争に荷担し、積極的に協力したことの責任を一体何人の教師が感じたのでしょうか。「あの時代だったから仕方がなかったのだ」の一言ですませ、徹底した軍国主義・暴力主義教育をすすめていた教師ほど一片の反省もなく、ものの見事に「民主主義教育」の推進者になりかわっていったようです。この点を深く掘り下げ自省することなく始められた戦後教育は、土台が戦前の軍国主義教育から民主主義教育にすり変わっただけで本質的な変化はなかったと言えるでしょう。