第25話 近代の戦争
〜庶民にとって戦争とは(1) 前提作業をかねて〜
長い間、戦争史のテーマをほったらかしてしまってすみません。途中で色々なテーマを入れてしまいました。 まず、前からの続きで、戦争のなかった江戸時代について述べておきましょう。江戸時代には対外的な戦争はありませんでした。何故でしょう?日本が「鎖国」していたからということなのですが、もう少し「鎖国」について考えてみましょう。この「鎖国」を国を完全に閉ざすものとは考えないでください。どだいそんなことは無理です。海に囲まれている日本にはそれこそ何でも流れついてしまうのですから。 そもそも江戸幕府は「鎖国」しているなんて考えていませんでした。「鎖国」という言葉自体が、19世紀になるまで日本で使われていなかったことを知っていますか?この言葉は、1690年に来日したドイツ人医師ケンペル(彼はオランダ商館の医者でした)が、滞在中の記録『日本誌』を著し、その付録にあたる部分を1801年、長崎オランダ通詞(通訳)志筑忠雄が翻訳し「鎖国論」として発表してようやく広まった言葉です。つまり、幕府はキリスト教禁止の徹底や、貿易統制を強化したとは考えていたとしても、国を閉ざしたという意識は全くなかったといえるでしょう。だってそうでしょう。オランダ・中国・朝鮮・蝦夷地とは関係を保っていたのです。しかも、どうやらケンペルは「鎖国」を悪いイメージでとらえていないようです。どちらかと言うと、「鎖国」してるから日本は平和なんだと考えていたようです。ですから、近年の研究でも、「鎖国」は「徳川の平和=Pax Tokugawa」を準備したのだ、と考える方もいます。 もう一つつけ加えると、1633・35・39年に相次いで出された鎖国令(受験生のみなさん、鎖国令は3=さ、5=こ、9=く、と覚えよう!!なんて下らない年代暗記ですが)は、幕府が長崎奉行に命じた職務規定でした。つまり、幕府が長崎奉行というお役所の役人に対して命じた文書であって、それ以上のものではなかったのです。何を言いたいのかと言いますと、当時こういう言い方はありませんでしたが、国民全体に向けて命じたものではなかったということです。 ようやく、明治維新以降の近代に入ります。日本の近代史はある面では戦争の歴史と言っていいかも知れません。みなさんが知っているように、1894〜95年の日清戦争、1904〜05年の日露戦争、1914〜18年の第一次世界大戦、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年からの太平洋戦争と休む間もなく戦争を続けていたという気がします。特に1931〜45年までの足かけ15年に及ぶ戦争は、通常「15年戦争」と言います。満州事変・日中戦争・太平洋戦争を分けてしまわず、一つの連続した戦争だと考えるわけです。国立大の日本史2次試験(論述)風に問うと、「満州事変・日中戦争・太平洋戦争に共通するものは何か簡単に答えよ」とでもなるでしょうか。答えがわかりますか?いずれも中国との戦いを続けていたことです。 太平洋戦争のことを近年では「アジア太平洋戦争」と言いますが、このアジア太平洋戦争中でも、中国との戦争は続いていました。わかりますか?中国と戦争し続けながら、アメリカ・イギリスなどに戦争を仕掛けたのです。常識的に考えて勝ち目はないじゃありませんか。これには、さすがの昭和天皇も中国との戦いはどうするのか、と問いつめています。それを様々な理由をつけて戦争の方向へ進め、アジア太平洋戦争に突入したのです。「今なら石油などの資源がある。但し、後になるとなくなるから戦争をしようにもできない」なんていう理由をつけて。こういうのを無謀な戦争と言います。資源がない、ないなら今の内なら取れるかも知れないから、やっちまえというのは無茶な論理です。 ここでは、この15年戦争に焦点を合わせて記したいと思います。というのも、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦は、明治から大正にかけての戦争で、すでに体験者が少数になっていること(決して軽んじているわけではありませんが)と、このコーナーを読んでくださっているだろう若い人たちにとれば、戦後の歴史すら「昔」のことでしょうから(私も一応戦後生まれですが)。 少し脱線しますが、大学で教えていて「あ〜あ、年とったおっさんやなぁ〜」と自分のことを思う時は、こういう戦争の話などをしている時です。何しろ現役の一回生たるや18〜19歳、少し年齢が上でも20〜21歳です。こうした若者相手に話をしますと、世代ギャップなんてもんじゃありません。「愕然・唖然、みんな私が悪うございました」状態です。以前は「学生運動はこうだった!」と話すと「そう〜か、そんな青春もあってんやな」と言われ、ある種憧れみたいな眼差しで見られて落ち込みましたし、「高度経済成長はかくかくしかじかで」と話すと「先生、僕ら低成長しかしらん。テレビは生まれた時からカラーやったし、冷蔵庫も洗濯機もあったで」でコケました。 しかし、今の一回生たるや、もちろん二回生以上もさほど大きな変化はないのでしょうが、彼らは高度経済成長も「昔」ですし、バブル経済の崩壊も「昔」です。−そういえば、バブルの時期に何と株に手を出していた生徒がいました− 大体1980年代生まれというと私からすれば、つい最近のことなのですが、彼らはいとも簡単に「先生、そんなもん知らんで!」とあっさり言います。「そう〜か、こういう子たちに歴史を教えるのはよっぽど気をつけないとあかん」と思ってしまいます。つまり、一回生に限らず今の大学生は、昭和の戦争期も戦後の様々な社会変動も距離的には同じで大した差はないのでしょう。これは彼らの責任ではありません。 そこで、イメージをとらえるところからはじめましょう。文学作品を少し紹介してみます。例えば、妹尾河童さんの『少年H』(上下)(この本の細かな事実関係の誤りについては、山中恒・山中典子『間違いだらけの少年H』勁草書房、をお読みください。私は事実関係からすれば、山中さんの本に記されている通りだとと考えています。それでも、『少年H』をあげるのは、他に若い人たちの導入にふさわしい安くて読みやすそうな本が見当たらないからです)、あるいは、絵本にもなっていますし割とテレビでもアニメが放映されていますが、野坂昭如さんの『火垂るの墓』(新潮文庫)を読んでいただいてもかまいません(但し、野坂さんの文体は一種独特の文体で慣れるのに苦労するかもしれませんが)。(あの、飴のカン=サクマドロップスを買うとどうしても、中の音を聞きたくて振る人はいませんか?私はそうです。)他にももっといい作品があるのでしょうが、文学に弱い私は、他にハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(岩波少年文庫)、ユレク・ボガエヴィッチ『ぼくの神さま』(竹書房文庫)程度の知識しかありません。ちなみに後の二冊は、ユダヤ人差別に関するものです。特に『ぼくの神さま』は映画にもなった話題作です。 今あげた『少年H』のように、いくつかの問題はあります。しかし、もうずいぶん前から指摘されていることなのですが、日本史学は、こうした庶民の感情や意識を上手にすくい取ることがどちらかといえば、下手だと思います。別の言い方をしますと、戦争に至る過程の政治的・経済的な説明や、民衆動員の構造把握はきちんとなされてきたと思います。もちろん、それらがまず明らかにされるべき課題であって、今後とも研究し続けないといけない課題でしょう。しかし、それだけでは何故当時の人たちがあれほど熱狂的に戦争に荷担していったかは明らかにできません。まして、15年戦争は、国民すべてが総動員される戦いでした。国民を戦争に巻き込まなければ、戦争自体ができなかったのです。 このあたりについては私も不勉強ですが、ヒトラー時代の、つまりファシズム期の、ドイツに関する研究は、かなり幅広く研究がなされているように思います。古い本も含めてタイトルだけ紹介してみますが、村瀬興雄『ナチス統治下の民衆生活』(東大出版)、E.マティアス『なぜヒトラーを阻止できなかったのか』(岩波現代新書)、J・Pスターン『ヒトラー神話の誕生』(社会思想社)、H・フォッケ、U・ライマー『ヒトラー政権下の日常生活』(社会思想社)、村瀬興雄『ナチズムと大衆社会』(有斐閣選書)、平井正『ヒトラー・ユーゲント』(中公新書)、K・フォンドゥング『ナチズムと祝祭」(未来社)といった一連の研究があります。 もちろん私の不勉強さは百も合点・二百も承知ですが、日本史ではこういう研究をあまりみつけにくいのです。これでは、日本の戦争の問題を考える際に弱いのではないでしょうか。私のこうした思いに一番応えてくれたのは、もう亡くなられてずいぶん経ちますが、黒羽清隆さんの一連の著作でした。例えば、『十五年戦争と平和教育』(地歴社)には弱者・庶民史からの実践ノートというサブタイトルがついています。あるいは、講談社現代新書の『太平洋戦争』(上下)には、歴史研究者黒羽清隆さん自身の学童集団疎開体験が記されています。そして、遺作になった『昭和史』(上下)(地歴社発売)など。また、先程お名前をあげましたが、山中恒さんの『ボクラ少国民』シリーズ(辺境社)からもいろいろと教えてもらいました。こういう本を利用して女性と戦争、子どもと戦争について次回考えてみたいと思います。 |