第14話:日本とベトナムの交流史


 
 毎日暑い日が続きますが皆さんお元気ですか?暑さにめげず毎日規則正しい生活を送ることが大切です。といってこの暑さじゃめげてしまいますが、クーラーのきいた部屋にばかりいたら秋からが余計こたえますよ。たまには逆療法というのもいいかもしれません。汗をいっぱいかいて運動するなんてネ。

 さて、私はというと暑いときこそ暑いところへ行こうっていうわけで、今年もたくさんの人たちとベトナムに行く予定でいます。昨年のことは、このコーナーの第3話にのせてありますからお読み下さい。ところで今回は皆さんへの「暑中見舞い」もかねて少し珍しいテーマ史をご披露したいと思います。といっても、このお話はすでに去る7月14日、今回ご一緒する日越障害児教育・福祉セミナーの第2回学習会で報告したものなのですが…。割と好評だったことで気をよくしてこのコーナーに「再録」という形で発表することにしました。

古代の交流

 現在、日本とベトナムの交流は盛んです。昨年ホーチミンを訪れた時、たくさんの日本人観光客に出会いましたし、大阪弁でおみやげ物を値切ってる茶髪の女の子を見たとき、ココは難波か心斎橋か?と思った程でした。それくらいベトナムへはたくさんの日本人が行っているようです。しかし、日本とベトナムの交流史についてはあまり関心がないようです。そこで、こういうお話をすることにしたのです。

 調べてみると意外に古くから日本とベトナムの交流はあったようです。736年、というと奈良時代なのですが、この年にインドのバラモン僧菩提僊那(ぼだいせんな)と共にベトナム僧仏哲(ぶってつ)が来日しています。仏哲は林邑楽(りんゆうがく)という伎楽を日本に伝えた人として知られています。そもそも林邑とはベトナムのことを指します。ベトナムから伝えられた伎楽がどのようなものかはわかりませんが、ベトナムに行くとレストランなどで踊りが披露されます。当時のものとは違っているでしょうが、現在の林邑楽を楽しむ機会があります。私はたぶんにインドと中国の音楽と踊りが混じり合ったものように思いました。この伎楽は752年に実施された東大寺大仏開眼供養の際に演じられたそうです。

 さらに翌年の753年、遣唐使だった藤原清河と阿倍仲麻呂は帰国途中に嵐に遭い、ベトナムに漂着したそうです。2人ともついに帰国できず、阿倍仲麻呂は766年中国唐の王朝から安南節度使に任命されています。安南もベトナムのことですから、安南の管理者になったと考えて下さい。これに加えてこの年日本にやってきた鑑真は、2人のベトナム人を同行し日本に来たといいます。


中世の交流

 古代の交流は仏教を中心とするものが多かったのですが、中世に入ると別の交流が始まります。1429年琉球王国が尚巴志により建国されるのですが、それからしばらくして1509年、尚真(第二尚氏、第3代王)は、安南に使者を送っています。当時琉球は東南アジア貿易の拠点で東南アジア諸国との交流を深めていたわけで、その中にちゃんとベトナムが加えられていたのです。

 中世では貿易以外におもしろいものがベトナムから入ってきました。それが何かわかりますか?ヒントは我々が毎日食べるものです。
実はお米なのです。中世で何故、米の輸入なのか?農民は一応米を作っているのですからそれを食べていたでしょう。しかし、京都などの都市に住む人たちは米を作っていないのですから、米を買って食べないと仕方がありません。そこで、ベトナム産の米を、ということなのです。

 厳密にいうと米そのものの輸入ではなく、北ベトナム原産の水稲(大唐米=チャンパ米)を国内で栽培し、これを食べていたのです。米の種類は大別するとインディカ米(いわゆる外米)とジャポニカ(国産米)に分けられます。ここで問題にしている米はもちろん長粒種のインディカ米です。私は昨年、ベトナム産の米をホテルで毎朝食べていました。外米だからまずいというものではありませんでしたよ。このチャンパ米をおそらく中世都市の庶民は食べていたのだろうと思います。この米は早熟で、水が少なくても育ち、害虫にも強く、炊き増えするという利点があったそうです。1段あたりの収穫量は全国平均で1石〜1石5斗、近畿地方では2石〜2石5斗だったといいますから、庶民はけっこう食べていたと考えられます。

 さらに、現在のNHK大河ドラマ「北条時宗」に関係すること。実はベトナムでも日本と同様元寇がありました。それも3度も。3度にわたる元寇の結果、予定されていた日本への3度目の攻撃ができず、断念する結果になったと考えられています。ベトナムでも発掘作業により、元寇を防ぐ「杭」が発見されています。


近世の交流

 16世紀末〜17世紀初頭にかけて日本は朱印船貿易を行いました。そして東南アジア諸国の各地に日本町が作られました。ベトナムに作られた日本町としては、ツーラン・フェフォが知られており、日本人居住地としてはトンキン・ハノイ・サイゴンがあります。当時の日本人にとってベトナムはコーチ=交趾という国名で知られていました。その後、鎖国令が出された結果朱印船貿易は終了してしまいますが、最後の鎖国令が出された1639年以降もフェフォには60〜70人ほどの日本人が住んでいたことが確認されています。鎖国の結果、ベトナムとの交流は途絶えたように見えますが、実はそうではありません。日本近海で操業していた漁船が嵐に巻き込まれベトナムまで漂流したり、逆にベトナム船が日本に漂流し本国に送り返された例がいくつもあるようです。また、1728年にはベトナム産の象が江戸幕府に献上された記録も残っています。将軍がベトナム産の象をご覧になったのでしょうかね?その後その象はどうしたんでしょうか?何となく気になります。


近代の交流

 明治維新後、ベトナムとの交流が復活します。といって、その交流は純然たる交流と侵略という痛みを持ったものに分けて考えないといけませんが。

 まず、純然たる交流。1905年、ファン・ボイ・チャウという知識人が来日します。彼はフランスと戦うために日本に武器の援助を求めて来日したのでした。しかし、当時アジア各国から来日していた人たちと交流を深める中で、ベトナムの「後進性」に気づき、「進んだ」日本の様子を学ばせようと東游(ドンズー)運動を展開しました。この運動は知識青年を日本に留学させることで、彼らが帰国後ベトナムの新たな担い手となり、ベトナムの進歩をはかろうとする運動でしたが、1909年チャウが日本を離れると運動は下火になってしまいました。今ひとつ勉強不足なのでわからないのですが、私はおそらくチャウが日本に対して抱いていたイメージが違ったのではないかと思えます。当時の日本はアジアの救世主どころではなく、福沢諭吉の「脱亜論」に示されるような、「遅れたアジア」を切り捨て、支配し、「進んだ欧米」に近づこうとしていたのですから。

 日本のベトナム侵略についてもふれておかなければなりません。ベトナム北部では1944年秋〜45年春にかけて日本の侵略の結果、200万人もの人たちが亡くなりました。1941年末から開始されたアジア太平洋戦争でベトナムは、当初直接軍政を敷かない国でした。つまり、旧主国フランスの支配機構を認めた上で、日本とフランスが共同管理していたのです。しかし、戦局の悪化で1945年3月フランス政権を打倒し、ベトナムを直接日本の軍政下におきました(これを仏印処理といいます)。この時期ベトナムでは飢饉がおきていたのです。もともと日本はフランスに米の強制買い付けさせていましたからベトナムでは米が不足していたのです。しかも、軍事的な理由で田畑に米は作らせず、綿・ジュートなどの栽培を強制していました。ですから一層米不足が進んでいました。南部のメコン・デルタ地帯と結びついていればこれほどまで米不足は深刻化しなかったでしょうが、アメリカの攻撃で米の輸送は困難になっていました。こうした原因が重なり、そこに飢饉が発生したために200万人もの犠牲者がでたのです。ちなみに200万人というと当時のベトナムの総人口の10分の1といいます。

 ですから、日本とベトナムの交流の歴史はいい関係ばかりがあったわけではありません。その後のベトナム戦争(抗米救国戦争)期の日本の問題を含め、様々な角度からとらえる必要があるようです。