第13話:テーマを持つ日本史
〜近現代の女性史〜


 
 
 いよいよ夏到来です。夏バテなんてしてられません。夏休みが始まります。暑いからといってダラダラしていたら、夏なんてすぐ終わってしまいます。早寝・早起きを心がけて規則正しい生活をしましょう。特に受験を控えている皆さん。中学生の人たちは1・2年生の復習を基本にやり上げましょう。高校生諸君は、まず教科書をそして参考書・問題集をじっくりやりこなしてください。いずれにせよ、焦りは禁物です。



 さて、今回は近現代の女性をテーマにします。戦後強くなったのは女性と靴下だとか言われるそうですが、別に女性は突然強くなったわけではありません。どの時代の女性たちも地に足をつけ懸命にそしてしぶとく生きてきたのです。

 こんなことを書いていて、フト思ったのはベトナムの女性たち。とにかくよく働く、図太くそしてまじめに、懸命に働く女性たちを見て、私は「この国の男どもは何しとんねん?」と思いました。お母ちゃんたちが暑い日中を懸命に働いているのに、男どもはといえば、ライオンのように木陰で昼寝中。もしくはオッサンどうしのダベリ。オイオイそんなことでええんかい!と思わずつっこみたくなるような状況でした。日本でも同じです。ウチの大学の学生さんたちもそう。元気なのは女の子たちです。今日はそんな元気な女性たちの元祖のような人たちにスポットをあててみましょう。


 近代の女性のトップをかざるのは津田梅子さん。少しマイナーな人かも知れません。もし知らなかったら知ってください。この人、なんと8歳でアメリカに留学したんです。8歳ですぜ。スゴイと思いません?1871年に派遣された岩倉遣欧使節団のメンバーとして参加し、1882年まで11年間アメリカで生活してたんです。その後1889〜92年にかけて再留学までしています。もうハンパじゃありませんよね。今なら比較的簡単に留学できますが、1871年て言うと明治4年です。しかも国の正式な使節団の一員でアメリカ留学。8歳の女の子にしてはかなりのプレッシャーだっただろうと思います。帰国後は女子英学塾を創設し女性教育に尽力します。この女子英学塾が今の津田塾大学です。


 ところで、この時期女性を取り巻く社会状況はどうだったんでしょう?決して女性が暮らしやすいものではなかったようです。1890年に公布された民法(フランス人のボアソナードが協力したものです)に対し、保守的な考えを持つ人たちは「民法出デゝ忠孝亡ブ」と批判し、ついに1898年、民法は保守的なものが改めて公布されたのでした。批判した保守派は、戸主権(戸主が家族個々の生活を統制する権利)、家督相続権(長子単独相続制)、男女不平等(妻の「無能力」の規定)を柱とする民法を強引に公布することに成功しました。

 この民法をめぐっては現在も問題が指摘されています。男女別姓を認めるか否かという問題がそれです。すでに古代の戸籍では夫婦別姓だったのです。ところが次第に女性は結婚後、養子縁組でもしない限り、男性の姓を名乗らなくてはいけなくなってしまいました。こうした明治民法の非民主的な内容以外に、刑法では妻の夫に対する不貞行為だけを罪にする条項や、女性の参政権が認められないなどの問題がありました。


 しかし、いつまでも女性は黙ってはいません。今記したような問題をおかしいと指摘する人たちが明治末から大正期に活躍します。その代表的人物が平塚雷鳥です。彼女は1911年、青鞜社を組織しました。当初は女性の権利を要求するのではなく、女性の文学者の集まりのような団体だったようですが、次第に女性の様々な問題に目を向けはじめたようです。「元始女性は太陽だった」で始まる青鞜社の宣言は、よく知られています。

 1920年になると平塚は、市川房枝らと新婦人協会を組織し、女性参政権獲得のための闘いを始めます。彼女たちの運動は戦後に実ることになりますが、22年には治安警察法第5条の撤廃を勝ち取りました。この条項では女性は政治集会に参加することさえできなかったのですが、それを改めさせたのです。



 ところで、皆さんはストライキという語を知っていますか?労働者は労働条件や賃金の問題で資本家と交渉し、場合によれば労働を一時的に放棄し、要求をする権利を持っています。これがストライキ(スト)なのですが、日本で初めてのストライキも女性が行ったのです。

 もちろん今のように労働組合の結成が認められていたわけではありませんから自然発生的なストライキだったのですが、1886年山梨県甲府の雨宮製糸で女性たちのストライキが実施されました。当時、農家の女性は出稼ぎで製糸工場にたくさん勤めていたのです。日本の資本主義は蛾の繭から取れる生糸に支えられていたといってもいい状態だったのです。その生糸を取り出す作業を農家出身の女性がしていました。労働時間は12時間くらいは普通、安い賃金で働かされ、挙げ句の果てに病気にかかればやめさせられるという非常に劣悪な条件で働いていたのです。もし読む機会があれば、山本茂実さんの『ああ野麦峠』、『続 ああ野麦峠』(いずれも角川文庫で読めます)を読んでください。彼女たちの労働がいかに過酷だったかがわかると思います。ですから、彼女たちはついにやむを得ずストライキという非常手段に訴えたのでした。


 他にももっと記さなくてはならないことがたくさんありますが、この女性史シリーズはこれくらいにしておこうと思います。戦後1947年に日本国憲法が制定され、民法が改正され、男女平等が確認されました。1985年には男女雇用機会均等法が成立し、女性の社会的進出が進んでいます。しかし今でも就職などで女性差別があるのです。実家から通える人でないといけないとか色々と理由?をつけて女性の就職はなかなか難しい現状が続いているようです。なかにはセクハラめいた面接をやる会社もあるといいます。


 そんな問題にもめげずにがんばっている女性たちの抱える問題は単に女性だけの問題ではありません。私も2人の娘の父親です。彼女たちのこれからの人生が彼女たちの夫になるだろう人たち、同じ時代を生きていく人たちとが楽しいものであるように望んでやみません。


 男性も女性も共にこれからの生活をどうすべきか考え手を携えて元気に生きていきたいものです。