第2話:小・中学校の自由研究の題材
− 学童集団疎開した子供たち −
6月からはじめたこのコーナーも私の都合で早速遅れがちになってしまいました。このコーナーを楽しみにご覧になっている方がいらっしゃったらごめんなさい。今月は夏休みの自由研究の題材を提供したいと思います。少し堅い話になりますがつきあって下さい。 |
みなさんは「学童集団疎開」という言葉を知っていますか? 私が中学生だった頃の歴史の教科書にこんな言葉が載っていたかどうかはもう覚えていませんが、少しばかり気になって長女の使っている東京書籍の教科書 「新編 新しい社会 歴史」を借りて開いてみると、ごく簡単にではありますが、「・・・・・・・また空襲が激しくなると、小学生は父母のもとを離れて、農村に集団で疎開した」と記されていました。正確に言うと当時は小学校は国民学校と呼ばれていましたから、国民学校が正しいのです。ともあれ、政府は1944年8月から9月にかけて、東京・大阪といった大都市の子どもたちを集団で農村に移したのです。 それは、教科書の記述にあるように空襲の被害から子どもたちを避難させようとしたことだけではありません。子どもたちを避難させ生き延びさせることで、延々と続いている戦争の新しい戦力(兵力)にしたいと考えていたからでした。事実、今の中学生くらいの子どもたちで、特別に志願した人は「少年兵」として戦争に加わったのです。 ところで、皆さんの住む守口市・門真市の近くにも学童集団疎開の子供たちが避難しています。私の手元にある「大阪市学童集団疎開地一覧」(大阪市史編纂所発行)を調べてみると、大阪市古市国民学校の子どもたちは北河内郡四條村・同寝屋川町・同田原町に、大阪市清水国民学校の子どもたちは北河内郡四条畷村に、さらに大阪市立聾唖学校香里道場は北河内郡寝屋川町に疎開しています。疎開先はたいていお寺や公民館などですが、そこで毎日の生活をしながら近くの学校を借りて授業を受けていたようです。 大阪市の子供たちは1944年の9月の初め頃から順次疎開先に出発しました。行くときはまるで遠足か修学旅行にでも行くような気分で出発したそうですが、親から離れた暮らしが続くにつれホームシックにかかった子どもたちが増えていったそうです。そうなると一目でも親に会いたくなるのが普通です。子どもたちは先生にばれないように宿舎をでて「逃亡」をはじめます。たいていはすぐ見つかってしまうのですが、中には「無事」に家に戻った子どももいました。しかし、それも学校が調べて宿舎に連れ戻されてしまいました。 集団疎開した子供たちや先生方が一番苦労したのは食糧でした。およそ食べられるものならば何でも食べたと言われます。さらに、シラミの発生にも苦しみました。しかも、1945年8月15日、戦争が終わっても集団疎開は継続しました。大阪市内の各地は繰り返し行われた「大阪大空襲」によって壊滅的な打撃を被っていたし、大都市の食糧事情が悪かったからです。その後、2ヶ月あまりを疎開先で過ごし、ようやく帰宅した子どもたちの中には空襲で両親とも亡くなり、孤児になってしまった子どももいたそうです。 こういう記録を例えば、皆さんの近くの図書館に行って、市史を借りて調べてみて下さい。ほんの数ページですが、学童集団疎開について記してあるかもしれません。それから宿舎になったお寺や公民館などに行って当時の様子を聞いてみるといいでしょう。特にお寺では、ご住職さんに当時の資料やお話をうかがうことができたら、それをテープに録音して原稿用紙などに写し直して下さい。あわせて写真を撮ってくるのも良いでしょうし、場合によっては写真を貸して下さるかもしれません。 そんなん無理やなんてあきらめず、近所のお年寄りから戦争の時の体験をうかがうだけでもレポートは書けます。実際、私が知っている限りですが、池田市の中学生たちはクラブ活動で、池田市の空襲と池田市に集団疎開してきた子どもたちのことをまとめています。そういえば、長女の使っている教科書にも「戦争体験を聞いてみよう」というページがあり、“子どもたちはどんな生活をしていたのだろうか”、“空襲のようすを聞いてみよう”、“戦場のようすはどうだったのだろう”というふうに調べる内容が記されています。 お盆の時期にご両親の実家に帰省する人もたくさんいると思います。おじいちゃんやおばあちゃんが元気なら、一度そういう話を聞いてみるのもよいでしょう。こういう作業を聞き書きといいます。どうです、夏休みに一度やってみませんか? 暑い夏休みをどうか元気に過ごして下さい。 |