<日本史ゼミ 番外編 1 >
 
 
会ってみたい人・みたかった人、そして「鬼籍」…
久しぶりに…
 2010年4月に入ってから、急に思いついて、かつての自分で作成した教材をこのページで順次公開しているのと並行して、滋賀県の高校の先生から、ある本を出版するから、是非購入して欲しいとのご連絡を受けた。詳しいことは、以下に記すことにするが、そうしたことや、共同で編集している本に新しい項目を立て、私は全く知らない方の歴史の文章を読むことになり、自分の年齢や、自分の師匠(私淑している、つまり、勝手に「師匠」として尊敬している歴史学者やジャンルの異なる研究者の方たち)のことについて考えることが多かった。そこで、自分の読書歴や、師匠(と勝手に思っている)人たちのことを書きたいと思った。
1. 大学時代のこと
 1974年4月、一浪の末、入学した文学部史学科のある種、伝統的な教育方法になじめず、歴史学研究会なるサークルに入り、まず購入した本は、鈴木正四氏の『戦後日本の史的分析』なる本だった。この本の朝鮮戦争の開始については、現在では訂正されないといけないだろうが、ともあれ、そんなこととは無関係に、歴史の専門書なるものを初めて購入し、読んだということで、何となく背伸びしたような気分になったことだけは確かだ。それからは、お決まりの社会科学系の読書とノート取りなのだが。

 当初、考古学を勉強したいと思って入学し、ただの一度だけ発掘にも参加させてもらったものの、高校生の時から発掘に加わっていた友人のすごさに圧倒され、早々にリタイヤした。というのも、土器のかけら一つで、「○○前期のものだ」とごく普通に言われ、それが同学年の友人とくれば、「こんな奴に勝てるわけない」とへこむことしきりである。しかも、最初の歴史専門書が、上記した現代史。完全に「転向」。「考古学よ、さらば、近現代史にワープ!」である。

 3回生(この言い方は関西圏の大学だけで使用していることを後で知った)になり、若い近現代史の先生のゼミに入れてもらった。一応、レジュメの書き方も発表の仕方もサークルで教えてもらい、すでに実践済みで、何とか、こなしつつ、さて、卒論のテーマは?何にすれば良いのか。「興味関心のあるものを書き出せ」の指示もあり、ようやくたどりついたのが、「日中戦争下の新聞」というより、新聞による戦意高揚を扱うことになった。このテーマ、満州事変の際に新聞がどのように戦意高揚をさせたのか、という江口圭一氏の論文を時期をずらしてやっただけ、ということだが、4回生の夏、京都府立資料館に通っただけの成果はあった。但し、オマケがついていて、大学院に受験した際、試問に当たられた先生に、「君は法学部からの転科だね」と言われることになる。つまり、1930年代の政治史などまだ歴史としては認めがたいという雰囲気があり、そういうテーマをやるのは、法学部の日本政治史である、という暗黙の了解があったと思われる。
2. 一人目の師匠
 そうそう、師匠。私をまさに拾ってくれた師匠は、私とは全く異なる考えをされ、いわばエリート。何故、拾ってもらえたかといえば、「論文発表しているのに、可哀想だ」と思ってくださったからである。しかし、師匠の存命中、同じ日本史を学びながらも、何故、こういう史料をそれこそ「ちまちま」と扱っているのかが皆目わからなかった。しかも、古代仏教史が専門で、私としてはともかくわからない世界。

 ところが、この師匠からいきなりびっくりすることを告げられる。「私の叔父は、服部之総で、この叔父に私が小さい時に『歴史を勉強しなさい』と言われ、私は歴史を勉強することになった」と平然として語るではないか。「服部之総!!!」 「日本近代史のリーダー!」 何冊か本も読んでいるぞ。師匠がその人の甥?!もう、びっくりを通り越し、尊敬の眼差しである。それでも、師匠のやっていることは理解できなかった。

 ようやく、一体何をああ細かくやっていたのか、何を解き明かしたかったのかが、私なりに理解できたのは、師匠が亡くなり(まさに鬼籍に入られ)、著作集の第1巻目の校正に協力した時のことであり、つい最近のことだ。「古代社会と仏教」、ないし古代社会に仏教がどのように定着していったのか、これが私なりに理解したことである。国家と仏教ではなく社会と仏教。それで、『日本霊異記』を、天台学、最澄を、時間をかけて読みとかねばならなかったのである。古代社会を捉えることなど無理だ。ただ、今なら言える。「寧楽遺文や平安遺文はどうされるのですか?そして、空海は?」と。しかし、時遅し。浄土に旅立った師匠に向かい声をかけることはできまい。せめて生きている間に、そういう話ができれば良かったと思う他ない。そう認めてくださるかどうかは別にして「不肖の弟子」である。
3. 会いたかった人たち
 会いたかった人。もちろん、師匠の叔父である服部之総氏。戦時下の苦しい中でも花王石鹸の社史を手がけ、黙々と史料と格闘されていた方。いまさらながら、師匠との関係を知り、あわてて古書店で『服部之総全集』を購入するというこの遅さ。


 次に、この方もすでに鬼籍に入って久しい。黒羽清隆氏。黒羽氏のファンや、黒羽氏のなされた仕事を受け継ぎ、歴史教育を実践しようと日々の授業で真剣勝負をされている先生方は多い。冒頭の滋賀の高校の先生は、つい最近、『黒羽清隆歴史教育論集』(竹林館)を編集された方。まだ、黒羽氏の書かれた原稿があったのか、それでは、声をかけてくださったこともあるし、購入し勉強させてもらおうということである。

 しかし、実に幅広い人だった。近代思想史、軍事史、歴史教育論、歴史教育の実践(方法論を含め)。ともかく何でもありの人だった。改めて購入した本を読むと、改めての発見がある。
 
 (1) 授業をする際に、生徒たちの「感性」を大切にし、歴史を本当にわかったと思わせる大切さ。
  (2) 教師が何を教材にし、何をどこまで(すべてでなく)教えるのかを考えること。
  (3) 史料として何を史料にするのか、可能な限り幅広く収集することの大切さ。
 (4) 頂点にあたる政治家・思想家と名もなき人々(庶民・民衆)との間の往復。
こうしたことなのだろうか。一度だけ、京都で行われた講演で話をうかがった以外、時々に刊行された著書を読み、授業の参考に、ネタにさせてもらうことが精一杯であった。

 それにしても思う。黒羽清隆という人は私にとれば「リトマス試験紙」のようだったと。私なりに考え準備した授業、その大半は、黒羽氏の本からヒントを得たものや、そこから利用させていただいたものだったが、そういう際には授業はスムーズに、そうでない、付け焼刃的な場合は、授業はうまくいかない。どちらが酸性でどちらがアルカリ性かは別にして、授業準備の大切さ、授業で話をする小さなネタの豊富さが勝敗を分ける。

 加えて、黒羽氏は、受験日本史も意識されていた。用語集も出されていることからもそのことはわかる。難問・珍問・奇問が続出する大学入試をどう思っていたのだろう。一度肉声で聞いてみたかったことの一つである。

 翻って、予備校で教えていた時の私の授業は?感性に訴えることもできず、ともかく詳しく、を柱に腕力勝負とばかりにやっていたのではないのか。それが黒羽氏から学んだこととは全く別のことであったという反省しかない。

 もう一つ先の本を読み改めて気づいたこと。「15年戦争期の子ども史」、これを私は今やっていることになるのだということ。学童集団疎開について、少年兵について少しばかりの論文を書いた。それは総括してこうしたくくりでの勉強だったのだ。とどのつまりは、黒羽氏を釈迦に喩えれば(ご本人は嫌がるだろうが)、釈迦の手の中で動いている孫悟空のような存在なのか。最初から勝ち目はない。しかし、「ごまめの歯ぎしり」の言葉通り、黒羽氏の著作に学びながら、「15年戦争期の子ども史」を学んでいくしかなかろう。


 3人目の会いたかった人。吉沢南氏。日本史ではなく、私にベトナムのことを、特に現代ベトナムのことを教えてくれた人。吉沢氏のことは、別のホームページの書籍紹介で、吉沢氏が亡くなった後刊行された『同時代史としてのベトナム戦争』(有志舎)について記した際に、書いたのでくり返さないが、それでもやはり、次の一節は心に残る。
ぼくの研究対象は、このような経験に左右され、「時局」に動かされつつ、「ジャーナリスティック」に変遷した。
だからある友人は、チェコ事件がおこると、「今度はチェコ史かい?」と皮肉ったものだ。チェコ史か。おもしろそうだし、やってもいいなア。
研究対象が変化するのがより良いと主張するつもりはまったくないが、そうした学問形成があってもよいと思う。大学の研究・教育体制における伝統的なテーマ設定・分野の保守的な(保守主義的な)堅持は、反省されてしかるべきだと思う。こうした「専門意識」に自縄自縛されたテーマ設定・分野設定の保守主義は、「師弟関係」などを媒介として、権威主義をささえるひとつの力となりはしなかったであろうか。(同書、22頁)
 そうだ。自分が面白いと思ったことは、それが永遠のテーマにはならなくても、勉強し、自分の考えを記し、発表することをしていいのだ、と勇気をもらった文である。日頃、「隙間産業」だの「器用さだけでこなしている」だのと批判される(器用ではなく、不器用だから、あちこちうろうろしているに過ぎないのだが)が、いくつかのテーマを抱えやっていくことを教えてくれたのであった。


反省として

 私にすれば、足元にも及ばない歴史研究者、歴史家とよぶにふさわしい人たち。お会いして話す機会はなかった人が大半だが、その人たちの記した本に学び少しずつ自分も、ということは可能かも知れない。といって、簡単にいくものでもないことを十分承知の上で、本を読み直す、史料にあたる他ないだろう。

 しかし、歴史学は地味で、おもしろい学問だと、つくづく思う。「クリオの女神」に魅せられてしまった人たちは、その魅力からはおそらく離れられないのだろう。
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