シリーズ2:第12回 シルクロードの世界
〜シルクロードの歴史1〜

 
 前回まではパレスチナ問題をテーマに取り上げ、シリーズでお送りしてきました。
 今年からは、ガラッと変えて「シルクロード」に関するお話をシリーズでお送りしたいと思います。
 「シルクロード」といえば、我々日本人には何かしら不思議な憧憬と郷愁を感じさせるもののようです。「三蔵法師」や「マルコポーロ」などの人々が旅したところ、また「月の砂漠」など、ロマンに満ちた世界を思わずイメージしてしまうのは、私だけでしょうか?


 「シルクロードの世界」とは一体どんなところなのか?地の果てまで続く砂漠、砂漠の中に浮かぶオアシス都市、蜃気楼、万年雪をいただく山脈、砂嵐、バザールのにぎわい。本やテレビなどを通して見たことはあっても、なかなか実感のわかない世界。

 私はこの世界をこの目で確かめたいと思い、シルクロードを旅行しました。

 今回のシリーズでは、シルクロードの歴史を私の見聞録を交えながらお話していきたいと思っています。

現在のシルクロード

 シルクロードとは、太古の時代より、ユーラシア大陸の東西を結んだ交通路のことです。この道を通って色々な文物が取引され、東西の世界へ伝わっていったのですが、その中でも有名なもの、それが中国の絹だったのです。養蚕の技術は中国で生まれたものです。この中国の絹が、当時ユーラシアの西で繁栄していたローマ帝国の人たちを魅了したのです。

 当時、中国はこの絹の生産技術の独占をはかり、技術の輸出禁止政策をおこなっていました。そのため、ユーラシアの東にある中国からラクダの背に積まれ、キャラバンからキャラバンへと何度もリレーされながら、この肌触りのよい、しかも軽くてキラキラ輝く織物は、西方世界へ運ばれていったのでした。当時のローマでは、同じ重さの金と取引されるほど重宝されたのです。

 では、このシルクロードはいかにして形成され開通したのでしょうか?それを中国の事情を中心にお話ししていきたいといきたいと思いますが、その前に中国の北に住む騎馬民族について語らなければいけません。なぜなら、中国と騎馬民族との抗争が、シルクロード開通に大きな役割を果たしたのですから。

 

地図1
 地図1のように、東のモンゴル高原から西の黒海北岸の南ロシア地域までは、細長く帯状に「草原」が続いている世界です。このあたりは雨があまり降らないところで、そのため森林が生まれないのです。逆にその南のシルクロードが通る地帯は、ほとんど雨が降らない所で大部分が砂漠の広がる世界になっています。

 草原の世界に話を戻します。ここは草を食む羊や山羊、また馬といった野生の動物たちの棲み家でした。これら野生の草食動物の群れの中に入り込み、それらを家畜化して生活する人たちが現れました。「遊牧民」の登場です。彼らは家畜の肉や、家畜からとれるミルクやチーズといった乳製品を生活の糧とする人たちです。

 家畜たちは食糧となる牧草を求めて草原を移動していきます。それとともに人間たちも家畜たちにくっついて移動します。つまり遊牧民は食糧に囲まれながら生活するという、今までになかった全く新しい生活スタイルを創造した人たちなのでした。

 また、彼らは「騎馬」という馬に乗る技を初めてあみだしたのです。この時から馬は単なる家畜ではなく、軍事的にも貴重な存在になっていきました。人間が馬の速力をわがものとし、大地を疾駆する馬上から矢を放つ。この「騎馬民族」の登場は、後の世界史に絶大な影響をあたえることになります。

 最も有名なとkろでは、チンギス=ハン率いるモンゴル帝国の登場といったとろでしょうか。このモンゴル帝国は、中国からヨーロッパに至るユーラシア大陸の大部分を征服し、史上最大の大帝国をつくりあげたことで知られています。騎馬民族によって世界史が塗り替えられてきたといっても、決して過言ではないのです。


 最初に歴史に登場する騎馬民族は「スキタイ」です。今から2500年以上も前の紀元前7世紀頃に、「草原の世界」に西端にあたる黒海北岸から南ロシア地方一帯にかけて活躍したイラン系の人たちです。彼らは騎馬と弓矢を使った軍事的才能に卓越した民族で、フェルト製のテントに住み家畜とともに移動生活をしていました。

 彼らは紀元前3世紀には歴史上から消えてしまうのですが、その少し前の紀元前4世紀に、今度は「草原の世界」の東端にあるモンゴル高原に、スキタイとそっくりの遊牧と騎馬の文化を持つ勢力が出現しました。これが「匈奴(きょうど)」です。

 これだけ短期間のうちに、ユーラシアの西から東まで一気に伝わったわけですが、これも騎馬民族の機動性によるところが大きいのでしょう。

 この「匈奴」と中国の抗争が約500年近くも続けられていくのですが、この両者の抗争の中で「シルクロード」が開通していくことになるのです。


「匈奴(きょうど)」
 私が高校時代、世界史を習い始めた頃、この民族の名を初めて目にした時、とても奇異な感じがしたことを覚えています。「この『匈奴』というやつは一体何者なのか?人間なのか、はたまたケダモノか?」理屈の上では民族名ということはわかっているつもりなのですが、しかし、この漢字表記では、人間を表すものとはなかなかイメージできず、逆に、何やら恐ろしげなものを感じていたのです。

 匈奴以外にも、「犬戎」・「烏孫」・「蠕蠕」・「回鶻」などの民族も登場してくるのですが、これらを見てもどうしてもケモノのイメージがつきまといます。

 草原の世界の住人たちは、自分たちの歴史を書くということがまずなかったため、中国側がこれらの民族名を音訳し、独特な漢字を当てて表記したのです。これらの当て字一つとっても、中国が騎馬民族のことをどのように見ていたかがわかると思います。騎馬民族の侵略を受けてきた中国からすれば、彼らは悪そのものだったわけです。もちろん、これに関しては騎馬民族側にも言い分はあるわけですけれど。

 今回の旅行で、現地のガイドさんが、匈奴についての説明をする時に、必ず「野蛮な」という肩書きをつけて「匈奴」を紹介していたのがとても印象的でした。

 話を元に戻しましょう。

 「匈奴」は、モンゴル系もしくはトルコ系に属する人たちです。一体どちらなのかはよくわかっていません。皆さんの中には、「トルコ人が、中国の北のモンゴル地方の住人であった。」と聞いてびっくりされた方も大勢いるはずです。現在、トルコという国は、モンゴルからはるか西の、ヨーロッパにも近い地中海東部にあるわけですからね。これにももちろん理由があるのですが、これについては、またいずれお話しすることにしますね。

 で、この「匈奴」がモンゴル高原に出現したのが紀元前4世紀、ちょうど中国が春秋戦国時代という動乱期の、まさにクライマックスを迎えようとしている頃のことです。


 当時の中国は戦国の七雄と呼ばれた7つの王国が覇権をかけて血みどろの抗争を続けていました。この頃から匈奴は中国への侵入を開始しました。「侵入」といっても、これは中国側の言い分であって、匈奴にしてみれば、生きていくための「移動」に他ならないのです。匈奴は遊牧民です。彼らの生活の糧となるのは、羊などの家畜です。その家畜たちの食糧である牧草を求めて移動するのは彼らの生死をかけた行動なのです。

 特に、冬になってモンゴル高原に大寒波が襲来した時などは、わずかに残っている牧草も完全に凍りついた大雪の下に閉じこめられてしまうため、家畜たちの食糧もなくなってしまいます。生きていくためには、少しでも暖かい南へ移動し、新たな牧草地を見つけなければならないのです。

 一方、中国は農耕を生活の糧とする世界です。たくさんの人口を養っていくためには、少しでも農業ができる土地を開墾し、畑をつくっていかなければなりません。匈奴にとってみれば貴重な牧草地であっても、中国にしてみれば単なる雑草に過ぎません。草が生えているなら農耕も可能だろう、ということでどんどん草原を掘りかえして畑にしていったのです。このことが両者の対立の原因になったのだと考えられます。

地図2:戦国時代の中国と匈奴
 戦国時代の中国の7王国のうち、特に匈奴の侵入に悩まされたのは、北方にあった燕(えん)や趙(ちょう)、そして秦(しん)といった国々でした。これらの国は、匈奴の侵入を防ぐため、それぞれが独自で壁の建設を始めました。これが後の「万里の長城」のもとになるものなのです。

 紀元前3世紀の末(前221年)、約500年にも及ぶ中国の分裂・抗争の時代に終止符をうつ時がきました。秦(しん)が他の6国を滅ぼして、ついに中国を統一したのです。これを成し遂げたのが始皇帝なのですが、彼はまた、中国の北辺に入り込んでいた匈奴を大軍をもって追い払い、以前に燕や趙がつくっていた壁をつなぎあわせて「万里の長城」を完成させました。

地図3:秦代の万里の長城
 現在、観光旅行のパンフレットやテレビの映像で見ることのできる「万里の長城」。レンガや石材を使って建造されたもので、高さ9m、幅は4〜5mもあり、実に立派で荘麗なものです。これは、北京から80kmほど北にある八達嶺見られるもので、観光地としても世界的に有名な所ですが、これは始皇帝が造った長城ではないのです。始皇帝の時代から1700年後、今から約500年前の明(みん)という王朝の時代に造られたものなのです。始皇帝時代の万里の長城は、明代のものよりずっと北方にあり、その高さは羊や馬が超えられない程度のものだったとされているのですが、実態はよくわかっていません。

 始皇帝が死ぬと、その後短期間のうちに秦は滅亡し、代わって漢(かん)という王朝ができます。この漢の時代になると、万里の長城はさらに西へ延び、「敦煌」まで続く約5000キロの大城壁となったのです。この漢代の長城は、土をつき固めて造ったもので、高さは2.5m、幅は70cm程のものです。明代のものでも、中国の西方に残っているものは、ほとんど漢代のものと同じ大きさの様です。

漢代の長城
 この写真は今から約2000年前の漢の時代の長城の残骸ですが、我々が普通イメージする、あの山なみを連ねてそびえ立つ長城とは随分とおもむきが違いますね。

 中国の黄河の西方からは、延々と続く「ゴビ」と呼ばれる大荒野(砂漠)が広がっているのですが、そこに残る長城は、漢代のものも明代のものも見かけは同じタイプのようです。それは城壁というより、大荒野の中に横たわる、北と南の世界を分かつ「壁」といったほうがふさわしいでしょう。中国にとってみれば、この「壁」は外敵の侵入を阻止するための防衛線。では、遊牧生活する騎馬民族には、この「壁」はどう映ったのでしょうか?

 「壁」をはさんだ両者の抗争は、約2000年も続けられることになるのです

漢代の万里の長城の西端、「陽関」のあとに残る狼煙(のろし)台。騎馬民族などの敵の襲来があれば、狼煙(のろし)や火を焚いて、都に伝えた。

「陽関」のあとから西をのぞむ。この先にタクラマカン砂漠が広がっている。

「陽関」はシルクロードにある中国最西端の関所。旅人は必ずここを通るため、かつては役所やホテルなどの建物があり、かなりの賑わいをみせていたはず。今はただ砂漠が広がっている。

 今回はここまでです。次回はシルクロード開通のいきさつなどをお話しします。