第36回:
「冬の時代」後半の堺利彦


向井 啓二

はじめに

本稿では、「冬の時代」後半における堺利彦の思想と行動を考察する。前半期の堺の行動が主に「同志の糾合の場」であった売文社の維持に力が注がれていたとするなら、後半期のそれは、次第に力量をつけつつ本格的な活動へと進みはじめた時期だったといえる。もっとも、それは急速に運動を開始するといったものではなく、情況の推移、特に権力側の動向を十分過ぎる程考慮しつつ行われた。そうした堺の姿勢を評価して「待機主義」というなら、その評価も誤りではなかろう。従来ともすれば、急進的活動を行った社会主義者を心情的に支持する立場から、堺を批判することがなされてきた。こうした傾向は、松尾尊?・荻野富士夫両氏らの研究により改められつつあるが、筆者も両氏の研究に依拠しながら、筆者なりの考察を行っていくことにしたい。



一 小さき旗揚げ

(1)『へちまの花』の創刊

 一九一四年一月、堺は『へちまの花』を創刊した。この冊子は、堺自らが評している通り、「与太と皮肉の交錯」(1)した雑誌であった。権力側も「別段過激ニ亘ルカ如キモノナキモ主義的臭味ヲ有スル文学ハ処々ニ之ヲ散見スルコトアリ」(2)と記す程度で、とりたてて注意していなかったようである。すでに、大杉栄・荒畑寒村の二人は、堺が『へちまの花』を創刊するよりも早く、前年一〇月から『近代思想』を発行していた。

私たちの計画は、当時の社会情勢から考えて自由に時事問題を論ずることは不可能であったが、せめて文芸や思想上の抽象的な問題を論ずる雑誌を発行して、離散隠遁している同志が再起する中心を作ろうというのである(3)
と後に荒畑も述べている。堺は『近代思想』にも執筆しているが、翻訳が主であり、時折自らの考えを表明するに過ぎなかった。勿論、堺とて新たに情況を切り拓くべく行動する必要性は十分理解していた。だが、それが一挙にできないとすれば、「ここしばらくねこをかぶるの必要」(4)があった。

 堺の「ねこかぶり」は単なる「ねこかぶり」ではなかった。後に堺が福田徳三を批判しつつ述べたことからすれば、「ねこかぶり」にも二種あるという。一つは「積極的ねこ」とよぶもので、自ら進んで「転向」することをいう。二つ目が「消極的ねこ」で強いられて沈黙するか、擬装「転向」を行うことをいう。堺の立場は無論、「消極的ねこ」であり、前者の立場はねこを「カブルのではなくて化ける」のであり、「許すことができない」と述べている(5)。要するに「退却はイヤである。そこでやむをえず沈黙している」(6)というのである。
 しかし、大杉らは、堺のこうした姿勢を苦々しく感じていた。
僕等はもう其の謂はゆる安全に飽き飽きしたのだ。と云ふよりは寧ろ、此の安全が却って僕等の生を萎縮さすやうに感じたのだ。そして今度は、君の言ふ其の危険の中へ、わなの中へ、わざわざ飛び込んで行ってみたくなったのだ(7)

と大杉は述べている。彼らの前進を血気盛んな青年たちの早急な行動と批判することは易しい。と同時に、堺の「待機」を後に伊藤野枝が評したように、「小父さん的態度」(8)ということも。だが、前進と「待機」は、彼らの個性に還元することができない対立であった。彼らの対立は、情況を如何に切り拓くかという理論上のそれではなかったろうか。もっとも、彼らが当時、どれ程のことを自覚していたかを別にして。

 ところで、堺は『へちまの花』以外にも『第三帝国』・『生活の力』・『反響』などの雑誌にも執筆し、各種の評論を行っていた。『へちまの花』には書けないことをこれら利用して述べたのである。とはいえ、『へちまの花』に堺が発表した風刺文やエッセイなどが全く無意味なものだったわけではない。例えば、題字の両側の英和・独和対訳欄を使い、本心を代弁する文(9)を載せている。また、「へちま」という言葉に込められたものは、それが「他人の長大を創造させる」(10)――運動の再開・発展を意味しよう――だけでなく、「強靭な繊維の集合体」(11)――同志の結束――を感じさせるものであったからではなかろうか。

 さらに、「秋が来た」という平凡な文でも、秋が来て次に冬が訪れ、「さらに一歩考えを進めて見るとおおみそかの後には新年がある、春がある」(12)と記すように、「春」=活動の本格的再開に万感の思いを込めて、着々と準備しているようにも読みとれる。堺の書いた平凡な文や、それとは正反対の奇抜な表題、風刺文などからは、彼の思い入れや「武器としての笑い」(13)
(飯沢匡)といったことを感じさせる。

 その後、『へちまの花』は次第に内容を変化させていく。これまでの「小さな新聞形四頁で、後には『へちま型』という言葉さえできるほどの流行になった」(14)ものを、第一七号より菊版へと改めた(15)。外形の変化と共にカモフラージュ的な性格が拭い去られ、紙面も一新された。表題だけが変わらず、『新社会』に移行したといっても良いものになった。第一七号の巻頭には、ベーベルの『婦人論』の抄訳(「新社会の文学美術」)が載り、続く一八号にも、「新社会の婦人」と題するベーベルの抄訳が掲載された。


(2)『新社会』の発行

 こうして堺は、一九一五年九月、『へちまの花』を『新社会』と改題し、次第に活動を再開していく。それを表明したのが「小さき旗上げ」であった。ここでは未だ「ただ遠近の同族と相呼応して、互いに励まし慰めつつ、おもむろに時機を待つの決心は、かなり堅くいたしておるつもりである」(16)と記しているように、「待機主義」的態度に終始していたとも評価されているが(17)、英文では明らかに活動再開を明言していた。

…‥然し四囲の状況を察するにまさに今こそが時機ではあるまいか。この雑誌は小なりといえども、この重要な転機を運動のため助長すべくつとめるであろう(18)
というように。堺が「小さき旗上げ」を記した時、遠く沖縄にあった比嘉春潮は、「幸徳事件という強い弾圧に崩壊し、立ち上がりかねた社会主義者の弁であった。しかしこれは地方に住む進歩派に大きな力を与えた」(19)出来事だったと述べている。




二 対外認識

 活動の再開とはいっても堺たち社会主義者が一足飛びに活動を行えたわけではない。彼らを取り巻く情況は、「冬」から徐々に「水温む春」へと近づきつつあったが、油断は禁物であった。堺は一歩ずつ足場を固めながら真の活動再開に向けて努力していた。

 本節以下では、その歩みを、理論活動を含めて考察することにしたい。

 『へちまの花』が『新社会』に移行した時期は、丁度第一次世界大戦が勃発した時期と重なっている。堺は逸早く『新社会』でこの戦争についての論評を行った。「欧州大戦終結後の問題」、「戦後の問題」(いずれも一九一五年九月)がそれである。表題に示されている通り、堺は進行中の戦争について直接言及することなく、戦後について述べている。しかも、これらの論評を含め、第一次世界大戦について論じたものは皆、傍観的なものであった。例えば、

…‥しかし各国内において、種々なる非戦運動と平和運動とは、種々なる形式をもって勃興しかけている。国内の苦痛と悲惨とが増大するに従って、これらの運動はいよいよその気勢を高めてくるに相違ない。吾人が唯一の希望をつなぐのは、実にこれらの諸運動の発展である(20)
といったように。直接の参戦国でない日本からの発言としては、各国内の平和勢力に希望を託す他ないとしても、ここには具体的な方向性が示されていない。また、間接的にせよ、日英同盟を利用して参戦国となっている自国の実情についても、
日本人の多くは、戦争をすれば必ず勝つものと信じている。今度の大戦争で戦争の損害と苦痛と悲惨を痛切に感じて、いかにしてもこれらを防止せねばならぬことを悟るべきはずであるのに、彼らはなおうぬぼれの夢がさめず、かえってますます戦争熱を高進させている(21)
と述べる程度であった。ここでは、戦争が如何に受けとられているかは述べられてはいるが、好戦熱に浮かれている国民をどのように冷ますかは提示されていない。
 第二インターナショナル加盟のヨーロッパ各党についての評価、インター全体の評価も同様に傍観的である。堺の場合、特に第二インターへの信頼度が極めて高い――正統派と自認していた――こともあるだろう。だが、ある程度実態が把握できている割には今一歩突っ込んだ批判がなされていない。
戦後において、欧州社会党の運動がその組織と傾向と特色とを一変するであろうとは、たれしも容易に想像しうるところである。そしてその変化が、一方においては、国民的、改良的、調和的に傾きやすいことも想像せられ、また一方においては、大いに国際的、革命的、非政党的に傾く理由があるとも考えられる(22)

と大よその事態と推移を了解しながら、なお、「しかし、大体から見て、我々の毎度言っているとおり、国際社会党が中心勢力となって、平和回復を促進することだけは確実だと信ずる」(23)という結論に止まっている。

 こうした傍観者的・希望観測的な論評に終始した原因は、すでに指摘されている通り、第一に、「大逆事件」後のシヨックから社会主義者が未だ脱し切れず、主体性を持った論評を書くことが不可能だったこと。第二に、日本の参戦自体が、積極的な軍事行動をとらずに行われたことで、国民の関心が、参戦による緊張感よりも輸出増加による好景気に向き、抵抗感が薄れていたことにも多分に影響されたからであった(24)

 しかしながら、神田文人氏が右に述べたような堺の論評を要約され、「わたしは堺があまりにも消極的、第三者的な揶揄皮肉に終始した点にこだわるのである」(25)と記されるのは、いささか酷という感がしないわけではない。神田氏は、堺が傍観者的だった――ならざるを得ない――理由として、国家からの弾圧と、当時の堺の関心が社会主義理論の摂取に力点がおかれていたことをあげておられる。

 だが、堺は第三者的態度を良いと考えていたわけでは決してなかった。「…‥日露戦争当時ハ吾々モ非戦論ヲ鼓吹シタガ今日ハ実ニ此ノ始末デ慚愧ニ堪ヘマセン」(26)という発言や、同じく「…‥日本ハコンナ有様デ別ニ何事モ言フベキ事ナシデアル…‥」(27)とも述べていることに注意すべきであろう。それでも堺の態度を批判するというのなら別であろうが。

 それでは、ロシア革命についてはどうであろうか。荒畑寒村が回顧しているように、

ただ、私たちはロシア革命の性質についても、労兵会とよばれたソヴィェトの組織についても、新政府を構成した政党についてもほとんど知ることがなかった。(中略)従来、私たちに耳馴れていたロシア社会民主党の首領は、プレハーノフ、ウィラ・ザスリッチ、リョフ・ディチ…‥らで、不思議とレーニン一派の事績については何も伝わっていなかったから、私たちは五里霧中だったのも無理はない(28)

という理解が一般的であった。情報が極めて乏しい中で堺は、一九一七年一〇月、レーニンの「ロシア革命」を翻訳した。これが我国初のレーニンの論文紹介だったことは周知のことだが、「稀な例であった」(29)というべきであろう。

 堺たちはこの年の四月、メーデーを記念する集会の準備会の席で、革命成功に寄せて連帯のメッセージを決議し、発表している。さらに、翌一八年一二月一日にも堺は高畠素之と連名でレーニンに宛てメッセージを送っている。このメッセージは、途中「イギリスで検閲官に押収されたため、レーニンの手に入ったか否かは不明である」(30)が、一年足らずの間に、彼らのロシア革命に対する理解はかなり深まったといえる。特にこの点で、高畠素之が果たした役割は大きい。この点について、田中真人氏は次のように要約されている。

…‥高畠のみが、ロシアの現実に即してレーニンの思想を正確に紹介しえた。同時に高畠はロシア革命をロシアの出来事として性急な普遍化をさける一方、日本の運動の現実に適合すると考えられた面を積極的にとり入れようとした(31)

と。堺についてみても、一九年には、「ボルシェヰキの建設的施策」を書いて革命直後のソビエトの実態をほぼ正確に伝えたし、続く「お上品学者ラッセル」では、イギリス流の代議政体を至上のものとし、プロレタリア・ディクタトゥーラ(堺は「労働者階級独裁」と記している)を非難するバートランド・ラッセルを批判するなど、理解が深まっていったのである。



三 普通選挙運動への参加

 普選運動に対して堺は、他の同志とは異なり積極的に参加している。

 まず、堺は一九一三年末の普選同盟会再興計画に加わっている(32)。そして、翌年三月一六日(33)には、神田神保町の貸席南明倶楽部で、加藤時次郎、高畠素之、片山潜、西川光二郎、山崎今朝弥ら社会主義者及び同調者らと共に政談演説会を開催しようとしたが、官憲の圧力により中止させられた。演説会は、「普通選挙ヲ目的トスル政党組織ノ計劃」のために開こうとしたものだったと官憲側史料は記している(34)

 この顔ぶれの中に片山が加わっていることに注目すべきだろう。「大逆事件」以後、堺ら硬派と片山ら軟派との対立は緩和し、両派合同の茶話会が開かれていたが、こうした交流を通じて両者が参加した会が計画されたのである。しかも、先引した史料が正しいとすれば、普選運動を進める目的を持つ政党――社会民主党・日本社会党の伝統を継承したものだったろう――の結成までが計画されていたのである。もう一点注意すべきことは、売文社系の社会主義者の中からは、堺と高畠しか参加していないことである。それぞれの思想傾向からすれば当然のことといえようが、普選運動はこの二人に担われることが、この時すでに明らかになっている。

 その後、同年一〇月、堺は『第三帝国』(第二一号)に「普通選挙、請願方法別案」と題する文を発表し、普選賛成者が「別々ニ請願書ヲ携ヘテ議院ニ出頭直接ニ之ヲ差出ス」(35)ようにすれば良いと述べた。これを受けて普選同盟会は、請願書を印刷し、関係者に配布したが弾圧を被って運動は広がらなかった。

 一五年三月の総選挙の際には、堺は馬場孤蝶の立候補に尽力した。馬場の立候補を計画したのは、雑誌『反響』を主宰した二人の夏目漱石門下生、生田長江と森田草平だった(36)。堺と馬場は『反響』を通じ知り合ったのである。馬場は、堺宛の手紙で立候補を勧められていることを知らせた(37)。堺は早速馬場を訪ね、推薦することを表明し、同年一月二三日付の『万朝報』に「東京社会主義者有志」の名で推薦広告を掲載させた(38)。堺はその後、馬場の後援会が編集した文集(『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』)に「辰猪と勝弥」という文を載せただけで表立った活動は差し控えたようだが、背後で運動を支えたことは間違いなかろう(39)。選挙結果は、得票総数三二票で、「最下位より二番目で落選した」(40)。結果はともあれ、堺たち普選派社会主義者にすれば、実際運動への第一歩を踏み出したものであったといえる。

 一六年には堺は、とりたてて目立った活動を行っていない。同年一月、吉野作造の有名な民本主義論――「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」――が発表され、普選議論が次第に活発になりつつあった。堺もこうしたことを考慮しながら、「吾人の見るところによれば、普通選挙は必ず近き将来に実現の機会を得るだろう」(41)と述べていた。

 一七年四月の総選挙では、ついに堺自らが立候補することになった。同年一月二五日、「日本社会主義者有志」の名で推薦文が『新社会』に発表された(42)。選挙運動は有志すなわち選挙委員である山崎今朝弥、吉川守邦、高畠素之の三人を中心に、生田長江らの応援を受けて行われた。「若し金があれば、選挙期間中、本誌(『新社会』のこと―引者注)を日刊新聞にして大いに気焔を挙げたいふ考案」(43)もあったが、ビラをはじめ演説会もことごとく禁止された。「その後演説会は全くできなくなりました。どこの貸席でも申し合わせたようにあいまいな理由で断りを言う」(44)と述べている。手も足も出せない状態では落選は必至のことであった。得票総数二五票という結果であった。堺は「二五票とはあんまり少ないようですが、しかし今日における諸種の形勢上、これが当然なのでありましょう」(45)と総括している。堺にしても、よもや当選できるとは思っていなかった。

…‥わたしの立候補は冗談半分で、というよりはむしろ一個の宣伝活動で、わたしどもがまだ、ほとんど全く言論の自由を持っていなかった時、せめて選挙に事よせて、少しばかり演説でもやってみようと言うに過ぎなかった…‥(46)

と後に堺は述べている。

 要するに堺は「とにかくこの際ぜひともして普通選挙要求の火の手をあげたい」(47)という理由から普選運動に加わり、立候補したのであった。

 一七年末、堺は加藤時次郎や往年の運動家中村太八郎らと共に普通選挙同盟会を再興し、運動の準備を行った。具体的な活動は、「会員を募集し、演説、遊説、印刷物配布、請願」などで、「請願用紙も揃へ請願は連署せず、各自一通づゝの請願書を携へて直接衆議院に出頭する事」という手筈まで整えていた(48)。だが、準備の最中、加藤と中村が警視庁特高課に呼び出され、一八年一月二四日、神田青年会館で開く予定だった演説会が中止された。加藤は、この際運動から手を引くことを約した(49)ため、運動は社会主義者だけで行う他なかった。

 普通選挙運動に社会主義者が混じってゐたからと云って、其の運動全部を社会主義運動と認めると云ふ口実を作って、それで以って該運動を鎮圧した政府の遣口は大いに問題とする価値があると思ふ(50)

と堺は批判している。

 加藤が弾圧に屈し、そのために堺との関係が悪化したことについては、成田龍一氏の研究(51)が詳しいのでそれに譲ることにするが、「大逆事件」後の「冬の時代」が変化してきたとはいえ、表立った活動はともすれば弾圧されたのであった。堺は、運動継続の努力はしたが、彼自身がついに二月九日、検束されてしまった。

 一八年八月、米騒動が発生した。堺は『東京朝日新聞』(九月三日付)に寄稿し、米騒動を解決するには、「普通選挙を断行する」ことと「速に労働組合の自由を許容する」ことの「唯二策」しかないと述べた(52)。普選と労働組合の組織の自由化を結びつけることは正しい。だが、堺は後にみるように、労働運動と直接関係を保っていたわけではなかった。

 しかも、米騒動が社会主義者の計画によって起こったというデマに対し、「今度の騒ぎに限り、社会主義者其他が何等煽動した形迹がないと、政府の当局から証明された」(53)と述べる程だった。もっとも堺にすれば、先の普選運動で社会主義者だという理由で弾圧されたことに対する皮肉であったかも知れないが。ともかく堺たちは、流動的な情勢に呼応し切れず、空しく傍観せざるを得なかったのである。

 九月二九日、原敬内閣が成立しても堺は、大して期待したわけではない。原内閣は、「平民内閣と称する金持内閣」であり、「政友会が洞中から尻尾にかけては地主的階級を主力とし、首から頭にかけては商工的金持を戴いてゐる」(54)ものだと述べている。
 米騒動の際にみられた立ち遅れを克服すべく、堺は普選運動に邁進する。松尾尊
?氏と荻野富士夫氏が明らかにされたように、一八年一二月二三日、吉野作造、福田徳三らが結成した黎明会に堺も関与した(55)

 結局、彼らと堺との提携は失敗し、堺は、

ところが、ある事件からわたしは福田君と交わりを絶った。その事件は私交上の事ではない。主義に関し、運動に関し、学問に対する事件だ。(中略)その事件の経過は福田君に対するわたしの判断を一変させた(56)
と福田を批判したが、
しかしわたしは必ずしも抽象的な空言がイケナイと言うのではない。お題目は抽象的でも何でも構わない。実際において有力な運動さえすれば、そこに団体の価値がある。
…‥ほとんどいっさいの進歩主義者を網羅し、あるいは有力なる多数の青年を糾合し、一個の大団体として国民的社会運動を起こすならば、わたしはこの抽象的空言たるお題目をもって満足するものである(57)
と述べて、間接的に支持することを明らかにしている(58)

 黎明会結成への関与と相前後して堺は、葉書による国会請願運動を行っている。
またハガキ運動という新しい方法を案出した者があるという話もチラホラ聞く。それは請願もよい。陳情もよいが、別に各人が  葉書をもって選挙権要求の意志を衆議院に通じさせようというのであるらしい。なるほど、これはきわめて簡便な方法で、しかも、存外効果のあるものかも知れない(59)

と第三者を装っている(60)が、「ハガキ運動大いにおやり下され多謝々々。我々としては、今度は飽くまで蔭にかくれてゐる」(61)と私信に記している通り、実は堺が提唱した運動に他ならなかった。堺が表面に出なかったのは、前年の普選同盟や黎明会の失敗、請願運動の「紹介を承諾してゐた政友会の議員達は原総裁に叱られて、今後社会党の請願は紹介しないと約束した」(62)事情があったからで、請願運動から切り換える必要が生じたためであった。

 
この後堺は、一九年二月九日、普通選挙期成同盟会(同年再建)の演説会に登壇し、「満場の注意を集めた」(63)が、再び表立った活動は避け、裏方に徹した。堺が次に計画したのは労働者政党の結成だった。すでに彼は労働運動と普選運動を関連づけてとらえていたし、政党の結成をくりかえし説いたが、同年一一月には、

我国に於ける今後の労働運動は、其の一面に於いて兎にかく政治化すべき機運に達してゐると思ふ。友愛会が((ママ))に普通選挙の主張を掲げたのなどは、正にその証拠である。又政治界に労働党組織の噂が頻りに起ってゐるのも、確かに其の機運に応ずるものである(64)

と述べて、より一歩進んだ運動をよびかけていく。だが、この時、堺以外には誰一人として労働者政党結成の意義を理解できた者はいなかったといえよう。党ができるか否かは、「運動の指導権を社会主義者がとるかどうかによることであったが、社会主義者は、それだけの力をまだもっていなかった」(65)。そればかりでなく、社会主義者内部の対立が生じていたのである。高畠の国家社会主義への傾斜と山川均のサンジカリズムの影響であった。

 先引した田中氏の文や堺、荒畑が認めているように、高畠の主張――政治運動の重視――は、ロシア革命の分析を通じてなされただけに重要な問題提起であった。だが、高畠の主張は、一蹴された。批判者である山川が高畠の主張の重要性に気づいた時、高畠はすでに「山を下り」(66)国家社会主義運動をはじめていた。

 一方、山川の方は、以前から普選運動に否定的だった。彼は吉野の民本主義を批判し、次のように述べている。

吾々は、デモクラシーが「主権の所在に関する説明」たる民本主義と手を切って、「主権運用の方法に関する説明」たる民本主義となってから、遂に選挙権の拡張、而かも其れは人民の当然の要求としてゞはなくて、為政者が其国家主義乃至は軍国主義的政策の遂行に最も便宜と認めた時に、政府案として提示せられる意味の選挙件の拡張に変化する((ママ))での径路を知ることができた(67)

中江兆民の言葉を借りれば、民本主義とは「恩賜的民権」に他ならない。だとすれば、主権の所在に関する論議を避けたままで与えられる参政権は拒否されねばならない。こうして山川は、経済的運動に力を集中すべきだとするサンジカリズムを採用した。


 両者の対立の狭間にあって堺はどのように対処したか。高畠、山川の論争の直後、「マルクス主義の旗印」を発表したことからすれば、彼の立場はマルクス主義にあり、一貫していたといえる。しかし、堺は論争の最中、自らの立場から双方を批判することをしなかった。マルクス主義者であることを宣言したとはいえ、未だ彼は「待機」の姿勢を崩さなかった。高畠が国家社会主義運動を開始するのは、堺のこうした態度に物足りなさを感じたためであろう。何よりも普通選挙の実施=参政権獲得を重視した高畠は、国家社会主義に方向性を見出したのであった。また、堺と山川との間にも考えに相違があったにも拘わらず、「堺によって公然と(山川批判が―引者注)表明されなかった」ため、「山川理論を正統的なものとしてしまった」(68)。そういう意味で堺がいう高畠の国家社会主義への「トンボガエリ」(69)の責任の一半は堺に帰されるべきだろう。

 ところで、堺は、二一年に入るとこれまでの活動を中止してしまった。前年まで、「普選運動に全然失望する前に、今一度最後の試みをやる余地がある。思うに来年の火は今年に比して数層の高さに燃えあがるであろう」(70)と述べていた堺が、「普選運動を利用することは場合によっては一策であるに相違ないが、今の日本では馬鹿馬鹿しい。今の日本の社会主義者としては議会運動をやらないところに迫力がある。やらないところにヨリ多くの効果がある」(71)と述べるに至る。もっとも、堺の普選運動否定は突然行われたわけではなかった。

…‥しかしわたしは必ずしも全然議会政策を否定する者ではない。貧しき者の代弁者を議会に送ることは必要である。(中略)しかし、それ以上のこと、あるいはそれ以外のことが必要である。モット根本的の方策が必要である。その方策があってこそ、議会を利用することもできるのである(72)

と普選否定もあり得ることをほのめかしている。ここでの「根本的方策」とはおそらく労働者政党の結成であろうが、それは不可能だった。しかも、堺は、国民がどのような方法をとるかは政府の態度如何だと述べている。すなわち、

国民の多数が政府や議会に愛想をつかして、今さら選挙権の拡張など迫ってみるのはばかばかしいという態度を取るか、それともこの際大いに要求の意志を示して政府と議会とを鞭撻しようという態度を取るか。もし政府が言論、結社、運動の自由を尊重して、相当に寛大公正な態度を示すならば、国民はけだし後者の態度をもって平和的な要求をなすであろうが…(73)

というように。別の文でも「元来、社会運動者(ならびに一般新興階級)がその運動の方針、態度、政策を定めるのは、主として現在における権力階級の状態による」と述べ、続けて、今の政府に望みはないが、「しかしまだ幾分かの最後の望みをつないで、おぼつかないながらも平和の変革を期待している」(74)と述べている。

 別言すれば、堺はできる限り普選運動を拡大させ、普通選挙の実施を要求しつつ、国家の弾圧の程度によっては、非議会運動もあり得ると考えていたといえる。非議会運動は、堺からすれば「広義の政治運動」(75)もしくは、「一面から見ると、実はかえって政治化したのだ」(76)と考えられていたからである。また、普選否定を明らかにした後の文であろうが、そこでは次のように述べている。

選挙運動には金が入る((ママ))。いかに普通選挙になっても、金のない無産階級は代表者を選出することが非常に困難である。…‥そこで普通選挙の結果、衆議院に輿論が現れるとしても、その輿論なるものが決して本統((ママ))に国民多数の利益を代表していないことになる(77)

こう書かねばならぬ程、堺の絶望は深いものだった。さらに、普選運動を担っている政治家にも堺は絶望していた。「普選運動は憲政会や国民党の連中に任せておけばいい。なるべくそれを無視し、なるべくそれをばかにするが痛快だという気味合いが生じてきた」(78)と述べている。こうして堺は、普選運動から手を引いていく。

 堺が右に述べたような変化を遂げるに至った背後には、すでに指摘されているように、サンジカリズムの影響の広がりがあったことはいうまでもない。しかし、他方で堺が政府の厳しい弾圧を体験して非議会的政治運動へ踏み切ったことは注意すべきだろう。彼は安易に普選否定に転じたわけでは決してない。二一年の普選否定を表明する直前において、

そこで来年(二一年―引者注)の問題は、ボリシェヰィズムの是非、直接行動と議会政策との関係、サンヂカリズムとボリシェヰィズムとの折り合い、純粋議会政策と利用的議会政策との区別などということだろうかと考えられる(79)

と述べて、いくつかの選択肢があることを示しているのだから。



四 労働運動への関与

 普選運動に積極的に関わった程には、堺は労働運動に関係していない。特に大杉、荒畑たちが奮闘したのに比し、堺は彼ら程力を注いでいない。勿論、「われわれが労働運動に接近すれば、組合活動が弾圧されるから、一定の距離から眺めているほかなかった」(80)という山川の発言にみられるような情況の中では、堺としても下手に関与することはできなかっただろう。

 ところで、大正期の労働運動は、友愛会の発展と共にあったことは周知のことである。堺は友愛会に対し、「好意的批判」(81)はしたが、露骨な悪意ある批判はしなかった。

 まず、堺が友愛会について『新社会』誌上で発言したのは、一九一五年一〇月のことであった。

鈴木文治君の世話をして居る友愛会は、近来大分勢力のある労働団体になりかけて居る。(中略)然し此の団体は、有力なる資本家と政府筋警察筋との保護奨励の下に成ってゐる事を思へば、余り有がたい者ではない事が分る(82)

と述べている。堺は友愛会の労資協調的性格を批判するだけでなく、

然しこんな不完全な者でも、兎にかく労働者の団体の卵には相違ない是等が進歩発達して純粋に労働者の利益を計る自治団体になるのは何時の事か、又どうすれば早くそう成らせる事が出来るか。それが今後の我々の大いに考ふべき所であり、又大いに勉めねばならぬ所である(83)

とも述べて、社会主義者としての方向性を見出そうとしている。

 また、この年は、鈴木文治がアメリカの排日運動緩和のために渡米した年でもあった。鈴木は、全米労働者大会での発言はもとより、帰国後も労働者の団結を強調した。堺は、大会での鈴木発言を受けて、

しかし我々は鈴木君の従来の態度と、友愛会の平生の主張とに見て、どうしても腹の底から鈴木君の言葉を信ずることができぬ。鈴木君は社会主義者とは死を賭しても争うと言っている(84)

と述べ、強く批判した。それは、友愛会の反社会主義的・労資協調的な立場を知る堺にとれば当然の批判だった。だが、堺は批判に止めず、鈴木のいう「共通の敵」が資本主義(資本家)だというなら、共に運動が可能だと述べたのである。だから、友愛会が協調主義的な立場から前進をしはじめたと見るや、

友愛会が真に労働者のための運動であるか、あるいは資本家のための運動であるか、すこぶる判別に苦しむ点が無いではないが、しかしとにかく今日においては、やや希望ある唯一の労働者の団体である。吾人は切にその発達と革新を希望せざるをえぬ(85)

と述べている。一七年に入ると好況に促されて、労働運動は飛躍的に前進した。ストライキ件数も「三九八件、参加人員五万七三〇九人を記録」(86)した。堺もこうした情況の変化を受けて、

思ふに今後、諸事業の拡張及び新興に連れ、労働者の不足は益々甚だしく、賃金増加、時間短縮、待遇改善等の要求は、各方面に於いて発生し、之に対する狭量短見なる資本家の態度は、更に幾多の大小ストライキを誘発するであらう。そして労働者はいよいよますます団結の必要を覚り、遂に労働組合勃興の機運を来すであらう(87)

と述べた。この時、堺たちは友愛会の中に協調的でない新しい幹部が生まれてくることを望んでいた。また、友愛会以外の戦闘的労働組合のモデルを見つけてもいた。一六年五月、「坂本孝三郎・堂前孫三郎・西尾末広ら…‥生粋の労働者からなる職工組合期成同志会」(88)がそれである。

此の団体は『労働問題の解決』と『自治的精神の修養』とを標榜してゐる点に於いて、大阪といふ工業中心地に発生した点に於いて、友愛会に比し、或は一層有望であらうかと思はれる(89)

と高く評価している。しかし、同志会は翌年一〇月に解散し、堺たちの期待通りにはいかなかった。そこで堺は再び、これまでにも増して、友愛会の戦闘化に期待しなければならなくなった。一七年七月には、友愛会が「資本家に睨まれぬほど温和な態度を取り得るかと云ふにそれでは労働者の方でも詰まらないから(友愛会から―引者注)離れて了ぶに相違ない」(90)と述べている。

 堺はくり返し友愛会を批判したが、友愛会内部の変化を理解していなかった。小山弘健氏は、「この時期(一九一七年から一九年の友愛会七周年大会まで―引者注)は、これまで友愛会の革新をうながしてきた古参社会主義者のがわが、ある意味で事態にたちおくれをしめしだした時期でもあった」(91)と記されている。堺は丁度この時、先述した通り普選運動に尽力していた。比重のかけ方が異なっていたのである。

 堺がこの変化を知るのは、一九年の友愛会七周年大会に出席した時である。出席といっても、「当時、友愛会神戸支部連合会の評議員をしていた賀川豊彦と著作家組合で面識になっていたことから、たまたま前日路上での立話しで『見に来ないか』と誘われた程度の、全く個人的な招待にすぎなかった」(92)。それ故堺は、「わたしはまず、わたしという人物が傍聴を許されるか否かをあやぶんでいた。ところが意外にも、よく来てくれたというので、来賓の待遇を受けた」(93)と「意外」な出来事に驚いたのだった、そして、大会第一日目に開かれた懇親会の席上、

…‥わたしどもは従来友愛会に対してかなり意地の悪い批評をしたことがある。しかし、それはただ友愛会の健全なる発達を切望するあまりであったこととご了察を願いたい(94)

と従来の批判について弁明し、友愛会の変化を祝している。先にみた堺の労働者政党結成の提唱は、この友愛会の変化に裏付けられてのことだった。

普通選挙の運動は種々な方面から起こりかけている。それらの諸勢力が集中されて、今度の議会中にどれだけの効果を示すかは分からないが、とにかくかなり目さましい運動になることだけは確かと考える。ことに今度は、友愛会その他の労働団体が新たに参加するので、初めて本統((ママ))に底力のある運動になるだろう。そこで大正一〇年の総選挙が普通選挙で行なわれるとすれば、その時がすなわち労働党の本統((ママ))に成立する時だ。それまではただ、労働運動の政治化の準備時代だ(95)

と言っているように。

 しかし、その後労働運動の中に急速にサンジカリズムの影響が広がっていく。その原因について松沢弘陽氏は、渡部徹氏の研究を受け継いで、

その一つは、いわば労働者がおかれた客観的な状況からする新しい不満の激化であり、他は、それにアピールする新しい思想の受容である(96)

と要約されている。第一次世界大戦の「勝利」・ワシントン講和会議・国際連盟の結成・ILO代表派遣問題等の動きを通し、わが国の労働者が、ヨーロッパを中心とする世界の労働運動を模範としたこと。さらに、こうした模倣により、ギルド・ソシアリズムが受容され、これが大杉らの主張していたサンジカリズムとの類似性ゆえ抵抗感なく受容されていったのである(97)

 一度サンジカリズムが広がりはじめると瞬く間に浸透していった。理論というよりもむしろ、あらゆる事柄のアンチ・テーゼの武器として。
 堺はサンジカリズムについて、「要するにサンジカリズムは、正統マルクス派の右端の修正派に対する、左端の修正派と見ることができる」(98)と述べている。さらに、

(ボリシェビズムと―引者注)サンヂカリズムは共通の点が無いでもない。その国家の政権をつかむ政治的なところはサンヂカリズムと全く違っているが、その労働者本位のところ、労農会の組織の様子など、大いに似た点があることは争われない(99)

とも述べる。堺はサンジカリズムとボリシェビズムとの共通点を見出したために、前者を敵視しなかった。できるところまでは分裂せずにやっていこうとする考えをとったのである。



五 道徳をめぐる論争

 これまで述べてきた実際的な活動以外に堺は、福田徳三、河上肇と論争している。以前、同様の論争を山路愛山、「新仏教」同人らと行った彼は、当時のオピニオン・リーダーと目された二人の発言を見逃さなかった。

 堺の基本的立場を再確認するなら、道徳の絶対普遍性を認めないということであった。つまり、道徳は他の欲望と同じく「超自然的なものでも物質以上のものでもなく」、道徳=社会的本能であり、階級性を有するものだというのである(100)
 こうした立場から堺は、福田、河上を批判する。まず、福田について。福田は河上程容易にとらえることができない。

わたしの見るところによれば、…‥一個の経済学者としての狭い資格と、一個の人間としての全体の資格との間に、矛盾を持っているのである。学者としては、…‥そのいわゆる社会改良主義を奉じているが、その全人格としては、多量なやじ気分を有し、一個の煽動家たる資格を十分に備えている(101)

と堺は福田を評している。情況の変化に機敏に対応する情況追随的文筆活動の様子が窺える。ただ、堺は福田の「煽動家的態度」や執筆活動を頭から否定し去ってはいない。黎明会結成問題は、堺に福田の姿勢を再認識させたが、運動の発展を促すものであれば、論理の矛盾をあえて問わないという考えであったようである。堺が福田を批判したのは、福田が、

唯物史観を誤解し(我は曲解し)全然心理作用を無視するものとなし、ゆえに唯物史観の誤謬から脱却して経済と心理との両要素を認めざるべからずと説き、次にいつの間にやらその両要素中において、心理を主として経済を従とし、…‥生存権のから安心や、創造主義の神秘的福音…‥に到達した(102)

からであった。すなわち、「唯物史観に対する道徳主義的歪曲」(103)を批判したのである。福田に限らず河上や櫛田民蔵にもこうした傾向は見られたが、堺は福田の言動が見かけの華々しさに比べ、論理に一貫性がないばかりか、次第に後退していく唯物史観理解を鋭く批判したのである。そして、これまである程度容認していた政治・社会的言動をも批判した。

しかし彼には堅実性が足りない。持続性が足りない。周囲の事情のためには軽々として容易にその心を変ずる人だ。…‥そしてその気の変わった時、その心の変じた際には、ずいぶんでたらめな彌縫、いいかげんな糊塗をやりかねない人だ(104)

と述べている。
 福田に対する厳しい批判は、堺が「福田時代から河上時代」が到来したと判断したためだった。河上も福田と同様、経済学ではマルクス主義に近づきながら、他方、政治・社会的発言を行っていた。河上は福田程、華々しい発言をしなかったが、「それだけにまた、確かなところがある」(105)と堺は見た。

 堺は河上が、社会問題の解決策としては社会主義を採用しつつ、社会主義には道徳性がないとする点を批判している。

我々としては、社会問題の根本的解決を計ることがすなわち道徳的完成に向かって進むゆえんだと考えているから、標準も目的も一つしかない(106)――要するに我々は、経済的要因によって心理的原因が生ずることを信じ、したがってまた、経済的原因の除去によって心理的原因もまた除去されることを信じている(107)

ここに見られる通り、社会問題の解決があってはじめて道徳問題が解決されるのであり、前者なしに後者はあり得ず、双方を対立するものとしてとらえていない。

 社会主義と道徳の問題から敷衍して、唯物史観と理想主義の問題が生じた。ここでも河上は、「絶対道徳(=理想―引者注)を標準にして社会主義運動の手段方法を批判」(107)している。この論争に新たに加わった櫛田は、「河上説を弁護しながら、かつこの両者(堺と河上―引者注)を調整しよう」(108)としたのであった。堺によれば理想とは、「人が現在の不満に刺激されて、その満足された状態を追求する心」(109)のことであり、不満すなわち経済上のそれが解消されるように努めることが、第一義のものと考えられていた。堺はそのことを「換言すれば道徳理想がなるべく精密に実際理想と合致すればいい。道徳理想は運動の原動力になる。実際理想は運動の方針を示す」(110)と述べている。

 堺は、右にみたような純理論上の論争以外にも「労働運動や社会運動者の中」にいる「潔癖家」を批判している(111)。彼がこれを問題にしたのは、「潔癖」さが逆に運動の発展を阻害すると考えたからである。「人道主義の潔癖家」はそれ故に階級闘争や直接行動を否定し、「愛と平和」を説く。しかし、運動の方法は権力側の出方によって決定すべきものであるから、この種の「潔癖」さは「実際上に弊害を生ずる」のである。

 もう一つの「潔癖家」は個人主義者、より具体的にいえば、アナーキストのことである。彼らが主張する「破壊」・「絶対自由」は決して今すぐ実現できるものではなく、「かえってただ、旧制度旧組織の存続を長引かせることになる」と批判している。極端な「潔癖」主義が運動にとってどれ程マイナスになるかを経験した堺ならではの発言であろう。

 以上の堺の主張は、先学が指摘する通り(112)、大雑把なものであった。だが、唯物史観を堅持し、論争を行った点は十分評価されて良いだろう。




六 日本社会主義同盟の結成

 これまで述べてきたような活動の飛躍として、一九二〇年一二月九日、日本社会主義同盟が結成された。すでに、堺ら従来からの「札つき」の社会主義者と新しく活動に加わった社会主義者・労働組合活動家らとの提携・協力が進んできたこともあり、同盟結成の準備は、比較的容易になされた。同年八月五日には、同盟創立の準備会が開かれ、堺も新旧の活動家と共に発起人三〇名の中に名を連ねた。その後、八月から一一月にかけて準備会は、東京・大阪などの都市部を中心に講演会を開き、同盟への参加を訴えた。加盟者は一〇〇〇名を超え、創立大会時には三〇〇〇名を数えるに至った(113)

 この間九月一日には、「『全国同志の非公式の機関』として、実は『同盟』の機関紙として雑誌『社会主義』が発行された」(114)。『社会主義』は、高畠らが国家社会主義運動を起こした後、『新社会評論』と改められた雑誌を引き継いだものであった。

 創立大会は、本来創立大会準備打合せを目的に開かれた会議(一二月一〇日を創立大会とする予定であった)を急遽変更して行われた。いうまでもなく官憲の弾圧が予想されたからである。打合せ会の席上、司会の岩佐作太郎がこの会を創立大会に変更する提案をし、提案が認められるや否や、「堺が大声で同盟の成立を宣言した」(115)。堺は、「一二月一〇日にはついに創立大会が警察を出し抜いて『とっさの間に』開会され、とにかく『同盟』が形式上に成立した」(116))と記している。

 同盟成立と同時に、堺たち古くからの活動家は執行部から退き、部外より協力することになった。当局からの弾圧を避けるだけでなく、新しい活動家による運動の妨げにならぬようにとの判断からであったろう。

 同盟の活動は、講演会・例会を中心とする啓蒙活動が中心であった(117)。ただ、啓蒙活動が中心だとはいえ、平民社―日本社会党の時のような活動とは質を異にしている点に注意すべきである。というのも、同盟の活動には労働者や労働組合幹部が参加しているからである。「『同盟』にはあらゆる労働団体の代表者が加盟している。代表者として加盟しているのではもちろんないが、代表的人物と目すべき者が個人として加盟している」(118)という堺の発言はこのことを裏付けているといえよう。社会主義者と労働組合活動家との協力、これが同盟成立の第一の意義である。

 第二の意義として、社会主義者の協力をあげることができる。勿論、同盟内部の理論的対立は次第に深まっていたが、ともかく、彼らが協力可能な部分で一致して活動したことは大きな意味を持っていた(119)

 だが、同盟は積極的な意義を持つ反面いくつかの問題を内包していた。それは、第一に同盟という名が示す通り、この団体は、様々な傾向の社会主義者の運動体であった。

しからば、「同盟」の思想的内容ははたしてどんなものかと言うに、それは少しも明示されていない。恐らく成立後といえども明示されないであろう。現時におけるわが国の状態として、態度主張の明晰な社会主義団体の成立しえないのは当然である(120)

と堺も述べているように、同盟結成のためには理論的対立は回避すべきだと考えられていたからである。

 第二に、同盟は明確な活動方針を示すことができなかった。そのため、「多数を結集することはできるが、反対に労働者階級の指導組織としての有効性は失われることになる」(121)

 第三に、しかし、こうした努力にも関わらず、アナルコ・サンジカリズムとボルシェビズムとの対立は日増しに強まっていった。先述した通り、労働組合内部に急速にサンジカリズムの影響が広がっていったことに起因している。後に堺は、「ある見方からすれば、…‥『同盟』の主勢力は無政府主義の個人と団体にあったともいうことができる」(122)と述べている。

 両者の対立は、『社会主義』誌上でも現れていた(123)。堺自身も、先引した「二種の潔癖」を二一年一二月に発表した。また、「大団結の運動が困難であり不自由である折柄、私は殊に此の(社会主義小団体の発生―引者注)必要を感ずる」(124)と記し、分裂もやむを得ないと考えていたようである。

 対立は不可避なものとなっていた。二一年五月九日、同盟第二回大会が開かれた。大会は開会と同時に当局によって解散が命じられた。同盟はその後も合法的活動の途を模索するが、解散命令を覆すことは不可能であった。解散について堺は、近藤憲二の文を引用して、「社会主義同盟は、内部崩壊を見ようとした時に政府から解散を命ぜられたのであった」(125)と述べている。

 社会主義同盟は、「社会主義的政治運動への出発点」(126)としては不十分ながら行動を行ったが、アナーキストとマルクス主義者との対立が明らかになり、双方が独自の運動を指向しはじめたことで分裂せざるを得なくなったのであった。



むすびにかえて

 長く続いた「冬の時代」は、ロシア革命以後徐々に変化し、社会主義同盟の結成をみることで一応、「雪解け」となったといえる。堺は「我々もまたついに山を下るべき時期が到達した」(127)と述べている。活動の全面的再開の時期は、論者によってはもう少し前からとらえられているが、ともかく、社会主義同盟の結成を一つの大きな契機と見ることには異論がなかろう。

 日本共産党結成―解党と運動は堺たちの思惑通りには進まなかったが、彼は古参社会主義者のリーダーとして活動を持続させた。「冬の時代」後半の堺の活動のポイントは、「大同団結」を第一に実行するということであろう(128)。堺のこの姿勢は、いつもうまくいったわけでは決してなかったが、無用な対立を極力避けつつ前進することが可能であったということはできるであろう。

click →「『冬の時代』後半の堺利彦」発表について
以下 註  

(1)「売文社時代」(『中央公論』、一九三一年三月、E233)。

(2) 「特別要視察人状勢一斑 第四」(『続 現代史資料』第一巻、みすず書房、一九八四年)337頁。以下、本書からの引用は、「状勢一斑 第四」337頁というように略記する。

(3) 「寒村自伝 上」(『荒畑寒村著作集』第九巻、平凡社、一九七七年)317頁。

(4) 「大杉君と僕」(『近代思想』一九一四年九月、C90)。

(5) 「一石二鳥の効果」(『新社会』一九一九年九月、C349)。

(6) 註(4)に同じ。

(7) 「賭博本能論」(『近代思想』一九一四年五月、復刻版、不二出版、一九八二年)。

(8) 「堺利彦論」(『労働運動』一九二〇年二・四月、『伊藤野枝全集 下』学藝書林、一九七三年)414頁。

(9) 註(1)に同じ、E233

(10) 「糸瓜」(『へちまの花』一九一四年一月二七日、復刻版、不二出版、一九八四年)。

(11) 「へちまの皮を論ず」(『へちまの花』一九一五年五月一日、C131136)。

(12) 『へちまの花』一九一四年一一月一日、C127

(13) 飯沢氏は、風刺について、「諷刺は曲がりくねっていて、決して直接的な表現はしない。多くは二重構造になっていて、いわゆるダブル・ミーニングを含んでいる。いつでも逃げ道が作ってあるのだ。そういう意味では卑怯な表現という人もいるかも知れぬが『命あってのもの種』で命を失ったら、今後の発言は消えてしまう。物をいう人間には出来るだけ永くいう義務がある。また一方、そういう人間にはこの世がどうなるか、その成り行きを最後まで見届けたいという願望が強いのである。だから延命策として、逃げ道を作って置く必要があるのだ」(『武器としての笑い』岩波新書、7071頁)と述べている。堺の「ねこかぶり」や風刺文などは、飯沢氏が指摘されたことと同様の意味を持つと思われる。

(14) 註(1)に同じ、E232

(15) 荻野富士夫「解題」(『へちまの花』復刻版、第2巻)11頁。

(16) 『新社会』一九一五年九月、C185

(17) 江口圭一編『大正デモクラシー』(学生社、一九七五年)194195頁での飛鳥井雅道氏の発言。

(18) The New Society”『新社会』一九一五年一〇月、なお訳文は、松尾尊?「明治社会主義から昭和マルクス主義への架橋」(『朝日ジャーナル』一九八二年一〇月五日)62−63頁による。

(19) 『沖縄の歳月』(中公新書)55頁。

(20) 「非戦運動の発展」(「紅葉黄葉」、『新社会』一九一五年一二月、D451)。

(21) 「慢心せる日本人」(同前、D453)。

(22) 「戦後社会党の傾向」(「橙黄橘緑」、『新社会』一九一五年一一月、D448)。

(23) 「ストクホルム大会」(「火の見台」、『新社会』一九一七年七月、D487)。

(24) 神田文人「日本の社会主義思想における反戦について」(『歴史学研究』第338号所収)及び、神田論文を受けて記された太田雅夫「第一次世界大戦をめぐる非戦論」(『大正デモクラシー研究』新泉社、一九七五年)参照。

(25) 前掲神田論文、16頁。

(26) 『状勢一斑 第五』399頁。

(27) 註(26)に同じ、406頁。

(28) 「寒村自伝 上」(『前掲書』)352353頁。

(29) 小林英夫・佐々木隆爾「『冬の時代』からの脱却」(『歴史学研究』第515号所収)42頁。

(30) 岡村宏『日本社会主義政党論史序説』(法律文化社、一九七八年)75頁。

(31) 『高畠素之』(現代評論社、一九七八年)104105頁。

(32) 松尾尊?『大正デモクラシー』(岩波書店、一九七九年)158頁。

(33) 「状勢一斑 第四」335頁。なお、犬丸義一「堺利彦」(『前衛』一九七二年一一月所収)142頁では、二月一六日となっている。

(34) 「状勢一斑 第四」335頁。

(35) 「状勢一斑 第五」437頁。

(36) 前掲松尾論文、158頁。

(37) 「馬場孤蝶君より」(『へちまの花』一九一五年二月一日)。

(38) 「状勢一斑 第五」440頁。

(39) 前掲松尾論文、159頁。なお、詳しくは同氏「一九一五年の文学界のある風景と最晩年の漱石」(『文学』一九六八年一〇月所収)を参照。

(40) 前掲松尾『文学』所収論文、51頁。

(41) 「普通選挙運動」(「大雪小雪」、『新社会』一九一六年三月、D461)。

(42) 『新社会』一九一七年一月及び「状勢一斑 第七」488489頁。

(43) 「発行者より」(『新社会』一九一七年一月)。

(44) 「候補者運動の経過」(『新社会』一九一七年五月、C264265)。なお、堺の出した広告には、「諸君は此際試みに只一人の社会主義者を衆議院に送り出して見ようという御意志はありませぬか」(『広告批評』第27号所収)とある。岡本宏は、前掲書65頁で、堺が「一九一七年一月には東京市議会選挙に立候補し」た記されているが、誤りである。

(45) 註(44)に同じ。

(46) 「菊地寛君とわたし」(『文芸春秋』一九二〇年一月、D383)。

(47) 「普通選挙運動」(「火の見台」、『新社会』一九一七年六月、D484)。

(48) 「普通選挙運動に就て」(『新社会』一九一八年二月)。

(49) 註(48)に同じ。

(50) 「状勢一斑 第八」537556557頁。

(51) 『加藤時次郎』(不二出版、一九八三年)198201頁参照。

(52) 「状勢一斑 第九」723724頁。

(53) 「煽動者なくとも」(「カライド・スコープ」、『新社会』一九一八年九月、D210)。

(54) 「金持内閣の出現」(「カライド・スコープ」、『新社会』一九一八年一〇月)。

(55) 前掲松尾論文、170頁。荻野富士夫「社会運動の展開」(『近代日本の統合と抵抗』第3巻、日本評論社、一九八二年)162頁参照。

(56) 「福田時代から河上時代へ」(『改造』一九一九年一二月、C434)。

(57) 「福田徳三君を評す」(『新社会』一九一九年五月、C330)。

(58) 但し、「社会主義思想の淵源およびその発達」(一九一九年、初出不明、C508)では、黎明会の主張は「すこぶる不鮮明で、昨今のありさまでは、一時の大人気もほとんど全く消えうせた形である」と述べている。

(59) 「普通選挙の新趨勢」(「カライド・スコープ」『新社会』一九一九年一月、D513)。

(60) 「普通選挙運動録」(『新社会』一九一八年三月)でも、「一月中旬、何者知れず数千枚の葉書に、普通選挙請願ハガキ奨励の意を書いたものを印刷して、之を一部の人士に配った」とある。

(61) 松尾尊?「第一次大戦後の普通選挙運動」(井上清編『大正期の政治と社会』岩波書店、一九七五年)171頁より重引。

(62) 「危険・危険・何が危険」(『新社会』一九一八年三月)。

(63) 註(60)に同じ。

(64) 「政治化、労働化」(『新社会』一九一九年一一月)。

(65) 信夫清三郎「大正デモクラシー史」(日本評論社、一九七八年)541頁。

(66) 「マルクス主義の旗印」(『新社会』一九一八年五月、C322)。

(67) 「民本主義の煩悶」(『山川均集』 近代日本思想大系第一九巻、筑摩書房、一九七六年)21頁。

(68) 小山仁志『日本社会運動思想史論』(ミネルヴァ書房、一九六七年)102頁。

(69) 「大杉、荒畑、高畠、山川」(『中央公論』一九三一年六月、E255)。

(70) 「普通選挙運動の希望」(「雪を照らす春の光」、『新社会評論』一九二〇年四月、D530)。

(71) 「議会運動と議会政策」(『社会主義』一九二一年三月)。

(72) 「火事と半鐘の関係」(『労働者の天下』、D176)。

(73) 「選挙権拡張の問題」(「カライド・スコープ」『新社会』一九一九年一月、D511512)。

(74) 「維新史の教訓」(『新社会』一九一九年七月、C339340)。

(75) 「政治運動、社会運動、労働運動」(『雄弁』一九二〇年一月、C507508)。

(76) 「本流、傍流、横流、逆流」(『解放』一九二〇年一二月、D98)。

(77) 「社会変革案とその実現力」(『野依雑誌』初出年月日不明、D124)。

(78) (76)に同じ、D93

(79) (76)に同じ、D99

(80) 座談会「堺枯川(二)」(『世界』一九五五年一一月所収)198頁。

(81) 川口浩「明治社会主義者と大正期労働運動」(『成蹊大学政治経済学論集』第一〇巻二号所収)233頁。

(82) 「畸形労働団体」(「渦巻く流」『新社会』一九一五年一〇月)。

(83) (82)に同じ。

(84) 「共通の敵とは何ぞ」(「霜ばしら」『新社会』一九一六年三月、D461)。

(85) 「労働組合運動」(「大雪小雪」『新社会』一九一六年三月、D461)。

(86) 二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」(『岩波講座日本歴史』第一八巻)103104頁。

(87) 「ストライキの機運」(「噴火口と安全弁」『新社会』一九一七年二月)。

(88) 小山弘健「『冬の時代』における古参社会主義者の組合運動観」(『ヒストリア』第二三号所収)60頁。

(89) 「有望なる労働団体」(註(87)に同じ)。なお、堺のこのようなとらえ方は持続していたようで、「日本社会運動の人々」(『改造』一九二一年一月、D106)にも同様のことが記されている。

(90) 「友愛会の進退」(「火の見台」『新社会』一九一七年七月)。

(91) 前掲小山論文62頁。

(92) 前掲川口論文、185頁。

(93) 「友愛会傍聴の記」(『新社会』一九一九年一〇月、C354)。

(94) (93)に同じ、C360361

(95) 「大正八年の社会的総勘定」(『雄弁』一九二〇年一月、C478)。

(96) 松沢弘陽『日本社会主義の思想』(筑摩書房、一九七三年)144頁。

(97) 渡部徹「一九一八年より二一年にいたる労働運動思想の推移」(前掲『大正期の政治と社会』所収)参照。

(98) 「社会主義の淵源およびその発達」(一九一九年、初出不明、C521522)。

(99) 註(98)に同じ。

(100) 「道徳の動物的起源およびその歴史的変遷」(『新社会』一九一六年九月、C223228)。

(101) 「福田徳三君を評す」(『新社会』一九一九年五月、C327)。

(102) 「一石二鳥の効果」(『新社会』一九一九年九月、C353)。

(103) 山田洸『日本社会主義の倫理思想』(青木書店、一九八一年)153頁。

(104) 「福田時代から河上時代へ」(『改造』一九一九年一二月、C434)。

(105) (104)に同じ、C435

(106) 「河上肇君を評す」(『新社会』一九一九年三月、C425)。

(107) 註(102)に同じ、C353

(107) 「唯物史観と理想主義」(『改造』一九一九年二月、C440)。

(108) 川口武彦「堺利彦と唯物史観研究」(『思想』第三七五号所収、後に『日本マルクス主義の源流』ありえす書房、一九八三年に収録)63頁。

(109) 註(107)に同じ、C443

(110) 註(107)に同じ、C447

(111) 「二種の潔癖」(『日本労働新聞』一九二一年二月、D8991)。

(112) 前掲山田論文及び前掲川口論文参照。

(113) 藤井正「日本社会主義同盟の歴史的意義」(増島宏編『日本の統一戦線 上』、大月書店、一九七八年)55頁。

(114) 「日本社会主義運動小史」(『マルクス・エンゲルス全集月報』<改造社版>、一九二八年六月以降、E351)。

(115) 犬丸義一『日本共産党の創立』(青木書店、一九八二年)63頁。

(116)) 註(114)に同じ。

(117) 具体的な活動内容については、前掲藤井論文5253頁参照。

(118) 「本流・傍流・横流・逆流」(『解放』一九二〇年一二月、D96)。

(119) 以上の評価は、前掲藤井・犬丸論文などでもなされている。

(120) 註(1189に同じ、D97

(121) 前掲岡本論文、94頁。

(122) 註(114)に同じ、E352

(123) 前掲岡本論文、9495頁。

(124) 「小団体発生の機運」(『社会主義』一九二一年三月)。

(125) 「日本社会主義運動における無政府主義の役割」(前掲書、E321)。

(126) 前掲犬丸論文、65頁。

(127) (125)に同じ、E314

(128) 前掲藤井論文参照。

   



「おまけ」 このコーナーを訪ねて、上記の論文をお読みくださった方に

〜その3「『冬の時代』後半の堺利彦」発表について〜


 「もりかど」のこのコーナー(「向井啓二の部屋」などという、とても気恥ずかしいタイトルがついています)に何故、突然、私の大学院時代の論文を掲載・発表したのか、簡単に説明しておきたいと思います。

 第一に、数年前のことになりますが、私が従来、学内研究誌に発表してきた論文を収集されていた九州・福岡の方(あえてお名前は記しませんが)が、私の勤務先にお手紙をくださり、長い間私とコンタクトを取ろうと努力されたこと、たまたまインターネット上の情報で、私のことがわかったこと、新たに発表した論文がないかと問われたことがあります。私としては1999年に、現在の勤務先に移って以来、堺利彦、あるいは政治思想史についてもう一度取組み直すには、研究を全くしていない期間(ブランク)が長すぎ、到底、無理だと判断し、新たなテーマをやりはじめましたので、これ以上、堺利彦についての論文を、新稿として書けないと考えました。

 第二に、今年(2007年)一月はじめ、私をこの現在の勤務先大学に就職できるよう推薦してくださった恩師が60歳を少し超えた年齢で亡くなったこと。実は、当初このコーナーに発表した論文を含め、堺利彦に関する論文をまとめ、一冊の著作として刊行する計画を恩師が立ててくださったにもかかわらず、出版を引き受けてくださる出版社が見つからず、この計画は中止になってしまいました。

 第三に、そうした経過の後に、今回、このコーナーに発表した論文(元は200字詰め原稿用紙に万年筆で記されたもの)を私の勉強部屋でそれこそ偶然に「発見」したわけです。丁度春休みの期間中であったことや、私の精神状態が下降気味で、落ち込んでいて、何かに集中しないとより悪化するように思い、この手書き原稿をパソコンのワープロソフトに打ち込むことで、気力を回復しようと考えました。そう考えて打ち込みはじめ、実に一週間程かかりました。内容は、手書き原稿のまま、一字一句も改めることもなく、作成しました。本来ならば、研究の進展もあり、それらを取り込んで発表すべきでしょうが、私が堺利彦に関する新たな研究について調査する気持ちの余裕がなく、古臭いものを、そのまま、打ち込み、このコーナーの管理人氏の加工(ホームページに発表するためだけのもの)を経て、発表に至った次第です。

 ですから、この論文発表は、私にとっては、書いた本人にすら忘れられた可哀想な論文に、インターネット上とはいえ、発表の場を与えてやったという以外に意味はありません。ただ、もし、日本の「初期社会主義」や政治思想史に興味関心がおありの方がいらっしゃれば、ネット上で公開されていますので、ご覧いただければ幸甚です。

 あわせて、以上記したような、私の個人的な理由を了解してくださり、発表の機会を与えてくださった「もりかど」管理人氏に感謝いたしますと共に、論文執筆のそもそものきっかけを作ってくださった亡き恩師にも感謝の意を表します。