第21話 戦争の歴史(2)
〜 古代末から中世 武士とはなんだろう? 〜



 

 有事法制を通そうとする動きが活発化してきています。果たしてこんな法律を通していいのでしょうか?私にはますます現在の動向が気になって仕方がありません。

 さて、今回は古代末から中世の戦争について考えたいと思います。この時期にはたくさんの内乱がありました。その最大のものが治承・寿永の内乱(源平の合戦とよんでいるもの)です。昔から『平家物語』や『源平盛衰記』などの話があり、この戦いについては誰もが知っているものなのですが、ここでは少し見方をかえて、というより合戦に期待されていた人がいらっしゃるとしたら、全く期待はずれのことを考えてみたいと思います。

 じゃあ一体何を扱うのか?といいますと、この時代に活躍した「武士」というものを考えてみたいと思うのです。「何を今さら武士なんだ」と、お叱りを受けるかも知れませんが、なかなかどうして、この「武士」という集団が理解しにくいものなのです。わかったように思えるものほど実は難しいのです。まして、私のように近代史なんていうのを勉強している人間にとってはそう簡単に答えられるシロモノではありません。


 そもそも皆さん方は「武士」といってイメージするのは何でしょうか?テレビの時代物などで見る武士は、たいてい江戸時代の武士ではありませんか?もちろん、NHKの大河ドラマではそれ以外の時代の武士を扱っています。

 しかし、「武士」というと江戸時代が中心で「士農工商」と続く身分の中で一番偉そうにしている奴ら。「苗字帯刀」・「切捨御免」などの特権を持って町民なんかをいじめたり、虫けら同前に殺したり、あるいは悪徳商人とグルになって「越前屋お前も悪よのう〜」などと言って賄賂を受け取り町娘をかどわかす奴、とまあこういうステレオタイプの姿を思い出しませんか?大体こういうこと自体が誤りなのです。江戸時代の農民以下の身分の人たちに苗字がなかったなんて考えてはいけません。

 農民や町人は苗字を名乗ることや書類に書くことができなかっただけです。でないと後の話がつながらないでしょう。だって、私たちはたいてい農民や町人の末裔です。つまりご先祖様は庶民なのです。それなのに明治に入って急に苗字をつけるなどしたら大変なことになります。自由につけることが可能だったら私など「向井」じゃなくて、もう少し格好のいい苗字にしたかった気がします。(そうですね、もう少し雅な名前がいいですね)

 帯刀もそうです。大小2本の刀(大刀と小刀)をさすことができただけです。ということは、二刀流なんていうのは本当はあり得ないことです。それも一応右利きの人が多いのでおそらく左側に2本さしていたはずです。切り捨て御免にしても、いくら何でもテレビのように町人と肩がぶつかっただけで町人を殺すことが許されていたらたまったものじゃありません。それじゃ、町人は命がいくらあっても足らなくなります。
 「いいや、僕(私)は絶対そういう見方はしていない」という方がいらっしゃたらそれにこしたことはありません。私の思い過ごしなのですから、それならありがたいというものです。
 

 話を元に戻しましょう。では、今問題にしようとしている古代末から中世にかけての武士と江戸時代の武士とでは決定的に異なる点は何でしょう?わかりますか?

 答えは、古代末から中世の武士は「兵農未分離」で身分は固定しきっていませんでした。江戸時代の武士の場合は、「兵農分離」をしていますから身分が固定されていました。別の言い方をすると、あらゆるといって本当はある程度限定されていたでしょうが、農民などからも武士になれた時代と江戸時代のように「カエルの子はカエル」よろしく原則として武士身分として認められた人(その子孫)以外は武士になれなかった、ということです。


 そもそも、律令制がきちんと運用されていた時代の軍事力はというと徴兵制に基づくものでした。それは例の正丁3人に1人の割で徴発され、諸国の軍団兵士になるものでした。そしてこの兵士の中から都(京)に行って1年間、衛士として宮門などの警備にあたる者や、九州大宰府に防人として送られ、3年間北九州の警備にあたる者もいました。

 特にこの防人は主に東国出身の兵士があてられ、彼らの様子は『万葉集』に「防人歌」として掲載されていることでも知られています。このことについては機会があれば、ぜひ吉野裕さんの『防人歌の基礎構造』という本を図書館などで探して読んでみてください。その後律令制は次第に緩みはじめます。すでに桓武天皇の治世の時、軍団兵士制にかえて郡司の子弟などを兵士にする健児の制を採用しました。これは農民の疲弊が激しく彼らの没落を防ぐことがねらいだったのですが、律令制本来の姿からすれば逸脱といえます。

 ところで、摂関政治の時代には中央の政治が形骸化します。地方の政治も同様に乱れていくことになります。律令制は解体したと言ってもいいでしょう。すでに律令制に基づく軍制は崩壊しています。地方では様々な事件がくり返しおきているのですが、それに対応できる軍事・警察組織がないという無秩序の状況になっています。山賊・強盗・海賊たちが各地でしたい放題のことをしているというわけです。

 こうした事態に対応するために、各地で次第に武装した人々が生まれていきます。彼らは地方の豪族や有力農民の出身で弓矢を持ち、馬に乗って戦う集団を形成していきました。彼らは家子(いえのこ)とよばれる一族や郎党(ろうとう)などの従者たちを率い地方で小武士団をつくっていきます。今述べた見方が「武士」発生のいわば伝統的・通説的なとらえ方です。おそらく私が高校生の時はこの考え方オンリーだったはずです。今でもこうしたとらえ方は依然としてあるのですが、研究の深化により果たしてそれだけか?と疑問が強まってきました。


 次に考えられる説は以下のような説です。それは、中央の下級貴族の中で国司として地方に赴任し、任期終了後も都に戻らずその地方に住み続け(土着し)、武士化する人たちもいたようものです。

 彼らのうち平氏や源氏は前者が桓武天皇の子孫(高望王・たかもちおう)ですし、後者は清和天皇の子孫(経基)です。こういうグループは元が天皇の子孫ですから名声も家柄も良いということで、その元に各地の小武士団が集いはじめ大武士団が形成されていきます。源氏や平氏は武士団のリーダー(棟梁)として力を持っていくことになります。

 中央では大きな力を持ちはじめた「武士」を利用するようになってきます。すでに記した通り都の警備に当たっていた衛士は実質的には存在しない状態になっていますからこれに代わるものが必要です。滝口の武士とよばれる武士は、蔵人所に所属し、宮廷を警固する武士でした。そのいわれは清涼殿東北の滝口に彼らの詰め所があったからこうよばれるようになったのでした。あるいは院の御所を警固する北面の武士も同様です。御所の北面(北側)に詰め所があったことにちなみ、北面の武士とよばれるようになったのでした。地方でも押領使(おうりょうし)・追捕使(ついぶし)とよばれる武士が生まれます。

 つまり、単なる武装集団ではなく、彼らの力を認め、役職を与えたわけです。この説は武士団というものを軍事貴族としてとらえるという考え方でしょう。確かに源氏や平氏はもともと下級とは貴族だったのですから、貴族のうち軍事を専門とする貴族であったことは間違いありません。武士団を小武士団ではなく大武士団ととらえれば、当然考えられてしかるべきという説でしょう。

 こうして実力を認められた「武士」たちが歴史に登場するようになったのが承平・天慶の乱です。平将門の乱と藤原純友の乱という年代が近い反乱を総称してこうよぶことはご存じの通りです。事件の詳細な説明はここでは省略しますが、この2つの乱の結果、軍事貴族である源氏・平氏がそれぞれ台頭し、地方は完全に「武士」が牛耳るという状況になっていきました。

 なお、これ以外にも武士の発生に関係する人々もいるようです。私が日頃から利用している山川出版社発行の『日本史広辞典』の「武士」の説明には、
「近年、発生当初の武士は、特殊軍事貴族・俘囚・狩猟民など殺生を業とする諸身分の複合体として登場し、平安末期以降に地方領主として所領経営者の性格をも備えるようになるとみる考え方が有力である」(1854ページ)
と記されています。
 
 この説明では高校生の人たちには聞き慣れない用語が記されています。「俘囚(ふしゅう)」がそれです。俘囚とは、同じ『日本史広辞典』によると「八世紀以降に律令国家に服属した蝦夷に対する呼称」(1862ページ)とあります。ですから、もとは蝦夷(えみし)とよばれ、場合によれば坂上田村麻呂と戦った東北民衆であり、現在は一応朝廷の支配に服している民衆といえましょう。こういう人々も武士の発生に関係しているというのです。

 教科書では実教出版の『高校日本史B』に「8世紀末、東北地方で蝦夷との戦闘で大敗した結果、政府は軍制の改革にのりださざるをえなくなった。郡司の子弟を健児に登用したり、投降した蝦夷から弓馬の術を習わせたのもその例である」(44ページ)と記されたものあります。ここでいう「投降した蝦夷」が「俘囚」でしょう。

 こうして見てくると「武士」という存在はわかったようでなかなかわかりにくいものだということが理解できるはずです。実際勉強すればするほどわからなくなってしまいました。ですから、ほぼ同時代の経済用語である「荘園公領制」と「武士」の説明をしなければならなかった予備校講師の時にはずいぶん苦労した記憶があります。

 話がうまく伝わったか、そしてうまくまとめられたかは疑問ですが、ともかくまとめてみましょう。

 武士は少なくとも従来とらえられてきたようなものではないということです。つまり、地方政治の乱れによって自らの土地を守るために武装した有力農民たちという「通説」とされている理解だけではいけないこと。場合によれば、すでに教科書にも記されているように俘囚とよばれた東北地方の民衆や狩猟民も含めて考えられるし、大武士団の場合は軍事貴族である源氏・平氏が棟梁となり力を持ち、次第に中央政府に進出していったということです。

 高校や予備校(塾)の授業に間に合うのかどうかわかりませんが、もし「武士」の発生、武士団の形成のところを学んだ時に、有力農民の武装化=武士という説明しかされない先生がいらっしゃったら、正直に申し上げて余り勉強されていない先生だと思っていいでしょう。

 別に敵視しているわけではありませんが、高校生向きの参考書やいくつかの教科書・辞書類を開けばわかることです。勉強とはこういうわかった(わかったつもりでいる)ことに疑いを持ってその内容を自分でもう一度考えてみることだと私は思います。今回の私自身の勉強があまりきちんとできなかった反省も込めて皆さんも是非やってみてください。