第16話:障害を持つ人たちの歴史
〜古代(1)〜



 

 前回は、何故私が障害を持つ人たちの歴史を考えようとしたのか、そのあらましをお話し、原始時代の状況について簡単に説明しました。
 今回は、その続きで古代社会の中の障害児・者について考えてみたいと思います。今回も河野勝行さんの本を利用させてもらいながら、進めていくことにしたいと思います。

 さて、日本史の文献史料(紙や木などに記された史料)で、まず最初に現れる障害者は、『古事記』や『日本書紀』に載っている水蛭子(ひるこ)だそうです。何となく字から想像できる通り、まるでヒルのような姿をした子だというのです。

 『古事記』には日本の誕生は、イザナギ(男神)とイザナミ(女神)が結婚し国ができるというように記されているのですが、その際、女神であるイザナミの方が先に口をきいたため、男女の道に背いたことになり、まるでヒルのような子どもが生まれたとされています。しかも、その子は葦船に入れられどこかに流されてしまったといいます。

 この話をもう一度注意深く読み直してください。ここには2つの問題(差別)があることが理解できるでしょうか?1つは、男性(男神)の方が女性(女神)より先に口をきかないといけないこと。まるで女性差別の原型のようなことです。2つ目は、ヒルのような姿をした子どもを葦船に入れて流したこと。障害者に対する差別です。

 岩波書店から発行されている『古典文学大系』の解説によると、水蛭子は、「手足をもたない水蛭(ひる)のような形をした不具の子の意か、または手足はあるが骨無しの子のいずれであろうが、多分後者であろう」と記されています。これとは別に花田春兆さんの『日本の障害者』という本では、水蛭子は「未熟児による重度脳性マヒ」だろうと推測されています。

 いずれにせよ、障害児が生まれ、その結果捨てられたことだけは確認できます。しかも、あまり取り上げられたことはないようですが、この話には続編があり、水蛭子を捨てた後にイザナギ・イザナミはもう1人子どもを生むのですが、その子も病弱だったようで、子どもの中に加えなかったというのです。病弱であることを淡島と記しています。何故、こうした子どもたちが立て続けに誕生したかというと、女神であるイザナミの方が先に口をきいたことによると考えられています。


 少し話が別の方向に行ってしまいそうですが、神様にせよ子どもを作るということは当然セックスをすることになります。そしてその後、女神が男神より先に声を出したから問題が起きたというのです。『古事記』の記述では、「興して(おこして)」と記されています。どちらが先に声を出すか、そんなことが問題になる。それこそ変だと思いませんか?ともあれ、以後二神は相談し、以後は男神であるイザナギの方から話すことにしたのだいいます。

 このことから理解できるように、女性差別や障害者差別というものは、国家なるものが誕生した時から発生したようです。

 『古事記』には他にも障害者が登場します。出雲の神様として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)を助けた少名毘古那神(すくなこなのかみ)がそれです。彼は小人でした。蛾の皮をはいだものを衣にし、ガガイモの実の鞘を船にしていたそうです。ちなみにガガイモとはどんな植物かというと、スズメノマクラともよばれるもので、葉は長心臓形で茎葉を切ると白汁が出、長さ10p位の楕円形のものだそうです。ということはスクナコナノカミは、10p程度の小人だったようです。

 さらにこの小人の神が出雲に到着した時、誰もスクナコナノカミのことを知らなかったようです。そこで、大国主命にこの小人の神のことを紹介してくれる神様がいたそうです。紹介の労を執ってくれた神様も障害を持つ神様で、その名を山田の曽富騰(やまだのそほど)といいました。『古事記』には、ヤマダノソホドのことを「この神は足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」と記しています。つまり、かなりの知恵者であったわけです。

 ところで、このヤマダノソホドという名の神様、どこかで聞いたことがありませんか?私が幼い時、秋の収穫前なら、必ず田んぼに立っていらっしたんですが…。『古事記』の注にも記されていることですが、「足は行かねども」、つまり足は悪いのだけど、という意味です。そう、「山田の中の一本足の案山子(かかし)」なんです。案山子が神様だったことをご存じでしたか?

 おそらく古代の農民たちも案山子に対する信仰は篤かったと思います。何しろ外的である雀たちからお米を守ってくださるのですから。「足は行かねども」とは先に記した通り足は悪いのだけれど、という意味ですが、それは差別語ではありません。歩けないけれど物知りで農民たちは皆感謝しているという意味でしょう。

 『古事記』には神様だけでなく、人間も障害者として記されています。垂仁天皇の子どもで本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)という人がいました。この皇子は「真事登波受」(まこととはず)、つまり口がきけなかったのです。先の花田春兆さんは、「声を発しなかった理由は、聴覚障害によるものかそれとも構音障害によるものか。自閉症的症状を考えられなくもなさそうだ」と指摘されています。

 父親である垂仁天皇は皇子を不憫に思って、都から遠い山陰地方の温泉に治療に行かせることにしました。その出発の際、奈良と山城の国の境で「跛盲」(あしなへめしい=足が悪く盲目の人)に出会ったので、不吉だとして、もう一度旅行をやり直すことにし、紀伊地方に皇子を向かわせました。

 ここでも障害者=不吉という差別意識を読み取ることができるのですが、ともかく皇子は治療の結果、声が出るようになったということです。